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2011年5月の記事

震災81日目

放射線被爆が心配されている土地で、さまざまな立場の人たちがさまざまな意見を述べておられます。

居住者、消費者の立場からすれば「被爆量は少なければ少ないほどよい」「ここまでならただちに心配はいらないなんていわれても不安は解消しない」ということでしょうし、
生産者、事業者の立場からすれば「風評被害をたてられてはやっていけない」「安全性をとことん追求すれば生産コストがあがりすぎて採算がとれない」ということになるのでしょう。

どちらの立場にしても「ここで線をひけばぜったい安全ということをはっきり示せ」と言いたくなるのもわかりますが、ことはそう簡単ではありません。

疫学的に正しい話をしようとすれば、どうしても統計学的な説明になってしまいます。放射線に限らず、他の有害物質(酒、タバコなども含め)についても病原生物についても、人間の側の個体差やその他の複合的な要因が多すぎて、「ここまでは誰にとっても絶対安全」なんてことは言いようがないです。

癌にかかる確率が何パーセントを超えたら「許容できない」と考えるのか、これも人それぞれな気がします。

心配性で敏感な人はさっさと逃げれば良い、先のことを思い煩わない人は自己責任で通せば良い。そう割り切ってしまえれば簡単かも知れませんが、いくら心配でもお金や仕事の事情で身動きとれない人もいるだろうし、自分は平気だと思っていても家族や知人がそうは思ってくれない人もいるでしょうね。

仕事を離れられないと言う夫と離婚して、子供を連れて関西に避難した奥さんがおられるとの報道を読んで、それが最終的に子供の幸せなのだろうかと考え込んでしまいました。

震災80日目

災害の現場ではほんのちょっとしたことで大きく運命が分かれます。
とっさの判断で右を選んだか左に進んだか、その程度の判断の違いが生死の分かれ目であったりもします。

亡くなった方にすれば理不尽きわまりないのですが、生き残った人にとっても簡単に割り切れるものではありません。
「なぜ私が生き延びて、あの人がそうならなかったのか」
「私ではなく、もっと生き延びるべき人がいたのではないか」
いくら考えたところで答えのでる問題ではないでしょう。

でも、このような「理不尽な不公平」が起きるのは災害の時だけでしょうか。

ときどき考え込んでしまうことがあります。
私はなぜ、さしたる障害を持たずに生まれたのか。
私はなぜ、捨てられることも虐待されることもなく育てられたのか。
私はなぜ、大学卒業まで教育を受けることができたのか。
私はなぜ、自分のしたい仕事でたべていくことができなかったのか。
私はなぜ、大病を患うこともなく、大けがをすることもなく生きてこられたのか。

私と同じような人生を望みながら、違う道を歩まなければならなかった人はきっとおられるはずです。その人と私はいったいどこが違ったのか。私と同じチャンスに恵まれれば、私よりいい仕事をできた人がいるのではないか。

いくら考えても答えは出ないのでしょうけど、私ほどには望むとおりの人生を選べなかった人がいることは忘れるわけにいかないと思っています。

震災79日目

とても長い期間、不安や不便を耐えなければならないような事態におちいった時、また関連する要因がたくさんありすぎて、ひとつひとつ解決していくのにじれったいほどの手間がかかるとき、がまんしきれなくなった人間が陥りやすい落とし穴があります。

ひとつは、事態をすっきりさっぱり解決できる手段がどこかにあるはずだ、それを知っている人がどこかにいるはずだ、という考えにとらわれてしまうこと。
たとえば、癌をたちどころに治してしまう驚異の治療法。人生の悩みをすっぱり解決してくれる教祖さま。

もうひとつは、事態がすぐに好転しないのは足を引っ張っている誰か、自分だけぬけがけで楽になろうとしている誰かがいるせいだと思いこんで、すべてをその人におっかぶせて袋だたきにすること。
これはつきつめればテロリストの論理。

それから、問題を見ない聞かない言わないようにしておれば、いつかそのうち誰かがなんとかしてくれるんじゃないか、と布団をかぶってしまうこと。
家にこもって出て来ない人だけがひきこもりではありませんよね。

みんな生身の人間ですから常に前進し続けること、真剣に考え続けることは不可能です。適度に休憩をはさみながら、ときには後退して道を選びながらでいい。
落とし穴にだけははまらないように気をつけましょうよね。

震災78日目

東京からボランティアに出かけた人が津波に流されたあと、見渡す限り何もなくなった土地を見て、
「本当にこの地にもとのような風景を取り戻せるのだろうか」
と呆然とした、という話を読みました。

現地の人々はまだまだあきらめていないとは思うのですけれど、もしかしてどこかの土地が今の状態のまま放置されることになったら、どうなるでしょうか。

人間が取り戻したがっているのは人間が生活してきた風景です。
それは他の動植物を押しのけて、人間に都合のよいように作り替えた環境です。
人間が手放せば、また他の動植物が住もうとするでしょうね。

日本の気候風土は植物の生育にとても適しています。
コンクリートやアスファルトはいずれ劣化して隙間から草を生やしていくでしょう。
草が生えれば必ずムシがやってきます。ムシが増えればそれを食べにトリが集まります。
塩分にしろ放射線にしろ、人間より耐性の高い生き物はいくらでもいます。
たとえ最初のうちはそこで繁殖することが困難であっても、生き物は果敢に適応を続けていくでしょう。

そのようにしてできあがっていく植物相、動物相が人間になじみやすいものかどうかはまた別問題でしょうけれど、自然は人間よりもはるかにしぶとく、根気づよいものだと思います。

震災77日目

人間生まれてから半世紀も経つと、身体のあちこちにいろいろな傷跡が残っています。

包丁や折れた傘の骨ですぱっと切ったところは白っぽい線が見える程度。
皮膚をずるっと擦りむいた後、消毒しないで砂場遊びしていて膿だらけになった膝には、今も青っぽい痣のような痕があります。
鉛筆を突き刺したところには炭素が残って点状の入れ墨。
サッシ窓で挟んだ指は、爪がはがれ落ちたあと再生してからも色合いの違っている部分があります。
アキレス腱断裂の縫合手術をうけたあとが一番華々しい縫合痕を残していて、少し盛り上がっているのでいまだにサンダルをはくと靴擦れができます。
私の人生なんかは幸運なほうなので、世の中には大けがをしてその後の人生がまるっきり予想と変わってしまった方も大勢おられると思います。

最近つくった青タンも含めて見比べながら、心のケガも、もし目に見えたらこんなふうにいろいろなのだろうな、と考えます。
見れば確かに痕はあるのだけど、生活にはべつに支障ないもの。
何十年たっても未だに不自由を残すもの。
何をするにつけても度外視できないほどの影響を持ち続けるもの。

どんなに小さなけがでも、負傷する以前の状態に完全にもどすわけにはいかないけれど、重症度とその後の手当しだいで、その後の影響度は大きく違ってくるでしょう。

ひとからげに「心のケア」なんてまとめてしまわないで、ひとりひとりの負傷の程度にあわせた適切なお手当がしていただけますように。

震災76日目

雨の季節が訪れました。
例年のごとく、日本列島は南西から順に入梅宣言をむかえています。
気温も急に上昇し、若葉は日々色濃く茂ってきています。

高温多湿なこの国は微生物天国でもあります。
特に衛生管理の難しい住環境、食生活の偏り、疲労や心労の蓄積、生活習慣の乱れなどは人々の健康状態にとって深刻なリスクとなります。

被災地で感染性疾患の蔓延を予防するために力をつくさなければならないのは当然です。
しかし、流言飛語のなかには「被災地で発生した伝染病が他の地域へ際限なく伝播していく」かのような、無益な不安をあおるものも見受けられます。
被災のうえに病気にかかった人やその周囲の人たちが無意味なバッシングを受けることがとても心配です。

新型インフルエンザや病原性大腸菌の騒動のときにもわかったことのはずですが、感染性疾患の流行を防ぐ第一の手立ては個々人の衛生管理、健康管理なのです。
手指や口につけるものの清潔を保つ、食品の保存法や調理法に気を使う、予防接種や食生活を通じて抵抗力をつける。
そういったことが実践されていれば、病気の蔓延を防ぐことができるし、流行が広がったとしても死者重症者を最低限におさえることができるのです。

コレラの発生地域を通るバスが窓を閉めてスピードをあげるような愚行はくりかえすものではありません。

震災75日目

人生や復興の道程をマラソンレースにたとえるのは陳腐で安直だと思います。
それでも、ゼロ地点で同じように立ちすくんでいた人たちが気を取り直して走り始め、時間の経過とともに人々の団塊がほぐれてトップと最後尾のあいだがしだいに開いていくのを見るにつけ、感じるところはあります。
スポーツ競技も社会生活も、スタートからして平等でなんかあり得ない。ラインに並ぶ前から生まれ持った資質や育ちや背負っているハンデや財産の差があって、それがもろにレース開始後にも影響するはずです。
もちろん、復興は優勝争いが目的のレースではなくて、ひとりのリタイアも出さず、全員がなるべく早くゴールにたどりつくことをめざすものでしょう。
トップランナーには進むべき方向を見定め、後続の牽引役をつとめながら自分のペース配分にも自分で気をくばらばければならないつらさがあるでしょう。
どん尻のランナーは他の選手たちに取り残され、背中を見送りながら、一歩でも二歩でも前へ進むしかないしんどさを感じているでしょう。
だれひとり楽なことのない競技を見守る私たちは、せめて最初の一人から最後のひとりが通り過ぎるまで、沿道で応援旗を振り続けるしかないのかも知れません。

震災74日目

思えば「住宅ローン」とは、今までと代わりばえのしない平凡な未来がずっと続くという危うい前提をもとにつくられたシステムだったのですね。
今までと同じように、あるいは少しずつましな収入がこの先何十年も得られるという前提。
新しく建てた住居は自分の一生分くらいは居住可能だという前提。
土地ほど確かな資産価値を持つものはない、という前提。

阪神淡路を経験した私達は、一瞬の災厄が収入源も住居も奪ってしまうことを知りました。
そうして東日本は土地でさえ一瞬にしてその価値を失うものだと思い知らされたようです。
自分の未来を担保にして買い求めた土地が液状化でぼこぼこになったり、海面下に沈んでしまったり、放射性物質のせいで居住できなくなったりするなんて、ローンを組んだ当初に誰が想像したでしょうか。

災害マップに活断層の位置や過去の被災歴を詳しく載せると、地価に影響するといって心配する人もいましたね。
この際、わかっているリスクはすべてオープンにしていただいたほうが、土地を投機の対象にする愚かしさを知ってもらうのには良いのではないでしょうか。
それで地価がさがれば、災害のたびに二重ローンに苦しむ人たちも少しは減るのではないかと思います。

震災73日目

月曜日の朝刊には週刊誌の広告がてんこもり。
本文の見出しよりも大きな字で、見る人の不安をあおるような文章がこれでもかというくらい踊っています。
なかには「本誌は煽らない」というあおり文句をつけている広告まであって、笑ってしまいました。

以前から、あきらかに売ることを目的とした根拠のよくわからない記事を、そうと知っていて読みたがるのはどんな人たちなのだろうと疑問に思っていました。
こと災害や事故や病気の流行といった記事については、「自分が助かりたいがため」「人より生存に有利な情報が欲しいから」なのかな、などと漠然と考えていました。
「自分だけ助かろうとしたってろくなことないのにな」とも。

最近、それはちょっと違うのかもしれないと考えるようになりました。「他人の裏をかいて自分だけうまい汁を吸おうとする人」は、こういった週刊誌の記事では格好の糾弾の的ですよね。読者さんはそういう立場になりたいのではなく、「知らないことで自分だけが損をしている」という不安にかられているのではないでしょうか。

ひとりだけ得をしようとするやつは許せない。でも、ひとりだけ損をするのはただの馬鹿。自分だけが置いてけぼりをくっているのではないか、他の人たちはもっとうまく立ち回るすべを知っていて黙っているのではないか。
そんな気分のほうが日本人をかりたてるのではないでしょうか。

買いだめ、買い占めが社会現象になった時にも感じたのですが、ひとりだけバスに乗り遅れたくないという焦りが私達を突き動かすことはけっこうありそうです。

震災72日目

ひところ、新聞広告やネット上の企業サイト、折り込みチラシにまで、
「被災者の皆様に慎んでお見舞い申し上げます」
といった感じの文言があふれていました。

ご不幸のあった方にお見舞いやお悔やみのメッセージを送るのは大切な礼儀ですし、なんらかの形で遺憾の意を表現しておきたいというのも自然な気持ちの動きだと思います。これ自体に文句を言うことはないでしょう。
また、そういった表示をまったくしないのもそれぞれの組織の考えなので、震災以前と全然変化のない広告やサイトも別段問題はないとも思います。

でも、お見舞いメッセージをトップに飾っただけでは「とりあえずご挨拶しときました」みたいな印象で、読むほうも「ああ、また書いてある」くらいの感慨しか持たなくなっていきますよね。

お見舞いメッセージと同じ囲みに企業独自の取り組みや義援金募集のためのリンクが張ってあったりすると、それだけでも印象が違います。
敢えてトップページは普段どおりの構成にしておいて、「被災者支援プロジェクト」のコーナーに降りたところでお見舞いメッセージを載せている会社もありました。
文面も慶弔電報の定型文みたいなものだと印象に残りませんが、自分たちの立場からの意見や思いがつけ加えてあれば、読んだかいもあります。

こんなところでも企業イメージの改善や独自色の主張はできるものなのですね。

震災71日目

東京から仕事で関西に出てこられた方のお話を仕事仲間からまた聞きしました。
首都圏は夜間の照明がかなり自粛されて、コンビニが営業しているのかどうかさえ近寄ってみなければわからないとか。
(本当ですか?)
街が暗いと気分まで滅入るので、関西こそもっともっと明るく元気を出して欲しい、と叱咤されたとのことでした。

気分が滅入りがちなのはマスメディアも例外ではないようですね。

阪神淡路の時はちょうど2ヶ月たった頃に地下鉄サリン事件が起きて、あっという間にメディアの耳目はそっちに動いていってしまいました。
今回は幸か不幸か、集団食中毒事件も乳児虐待死も都内のできごとではありませんでした。
そのせいで扱いが短期間で終った、とは思いたくないのですが。

中央を離れたところから見ていると、この国の情報発信者がどの程度首都圏に集中しているのか見えやすい気がします。

ニュースや記事をつくっている皆さん、たまには西日本に来て、外から東日本をながめてみてください。

震災70日目

東京電力に対する風当たりは日増しに強くなっている気がしますね。
会社を潰してでも責任を問うべきだ、役員の報酬などすべて返上して被害者の救済にあてるべきだ、などという意見もたくさん聞かれます。
どのようなかたちで一企業に責任を問うべきか。そぅ聞かれても私個人としては答えようがありません。

ただ、私はもともと死刑廃止論者であって、その論拠のひとつは
「殺人の罪が自分の命を差し出すくらいのことであがなわれると思われては困る」という考えであったりはするのですが。

東電を存続させるか廃業させるか、いずれにしても気にかけていただきたいのは。今回の災害にあたって会社の人たちが行動したこと、しなかったこと、決断したこと、できなかったことの内容とその結果について、きちんとした記録をのこすということです。
組織が解体されると、得てしてそこに蓄積された記録や教訓が散逸してしまうことになりがちです。
たとえ会社がなくなるとしても、ふたつとない貴重な記録はきちんと後世に残していただきたいものです。

震災69日目

「生活不活発病」が話題になっています。
狭い避難所には寝るほどのスペースしかなく、出歩くのも周囲に気兼ねするし、今までこなしてきた仕事や家事もなくなってしまった。
そんな状況でお年寄りがじっと動かずにいると、身体機能があっという間に低下し、意欲の減退や脳機能の障害までまねいてしまうそうです。
心身のコンディションを保つためには適度に動かし、刺激を与え続けることが不可欠なのですね。

でも、使える機能を使わないせいで低下させてしまいそうなのは避難所のお年寄りだけでしょうか。
エレベーターがあるから階段は使わない。メールで要件は済むから出かける必要はない。ネットで答のみつかる質問なら自分の頭で考えるまでもない。
そんなふうに身体能力や思考能力の使い惜しみをしている人はどこにでもいそうですね。
もちろん、能力を超えた無理をすることはないですけど、自分でできることまで人任せ、機械任せにしていると、いざ交通期間に頼らずに帰宅しなければならない、PCを使わずに仕事をまとめないといけない、となったときに困るんじゃないでしょうか。

エレベーターは持病や障害のある人にゆずり、階段を駆け上る人って頼もしいですよね。
そういった人たちのために、もっと目につくところに階段を設置して欲しい。
ビルの設計者さんやオーナーさんも体力づくり、省エネの応援をお願いします。

震災68日目

大潮です。まん丸い月が空の低いところにかかっています。

満潮時、堤防が壊れた後の低い土地にひたひたと押し寄せる海水の映像を見ました。
震災以前にもツバルなどの海抜の低い国々で似たような光景を見たことはありましたが、まさか日本でこんなに早く見られるとは思っていませんでした。

海面が上昇すれば高潮や波浪の被害がひどくなる。当然ながら、このままいけば津波被害もより深刻になっていくのでしょうね。堤防をいくら高くしても追いつかないかもしれません。

海面上昇の主な原因は地球温暖化だと言われています。
なかには地球は温暖化していないとか、温暖化の原因は大気中の二酸化炭素濃度の増加ではないという意見もあるようですが、それならなおさら急いで真の原因をつきとめなければ、とても困ったことになっていきそうですね。

沖ノ鳥島も遠からず海面下に沈んでしまうんでしょうか。

震災67日目

AV関連機器が飛躍的に進歩したおかげで、私たちは遠く離れた土地の災害のありさまを臨場感たっぷりに見聞きできるようになりました。
視覚と聴覚は人間の感覚のなかでも特に複雑精密に進化したもので、映像や音声のかたちをした記録からは膨大な情報を得ることができます。

その一方で、もっと原始的で未分化な感覚ー触覚、味覚、嗅覚といったものは、記録再現すること自体まだまだ難しいものです。
けれど、そういう感覚のほうが実体験と密接に結びついていて、後々まで記憶されているもののようです。
TVやネットの動画を見ているだけでは、人々が感じた大地の振動、海水の味や空気の冷たさ、避難所にあふれていたはずの匂いまではわかりません。
いずれ人々はそういう体験を文学なり絵画なり映画なり、何らかの手段で伝えようとするでしょう。
それまでは、伝えきれない感覚を記憶している人たちがいるということを忘れずにいるしかありません。

震災66日目

実家の近所にちょっと古めの貸ビルがありました。
阪神淡路大震災で多少外壁がはげ落ちたりしたものの、入居していた数軒のお店は営業を続けていました。
ところがビルのオーナーさんは以前から建て替えをしたいと考えておられたようで、立ち退きを切り出したところ、テナントさんと大もめにもめてしまいました。
「被災を口実に追い出すつもりか」
「このビルは修理すれば十分使用に耐える」
という人たちに対抗して、オーナーさん側も
「倒壊の危険がありますので近寄らないでください」
なんて張り紙までしてしまって。
結局、修理も建て替えもできないまま、このビルだけが周辺の復旧から取り残されてしまったようです。

区画整理や土地の有効利用を押し進めたい人たちもたくさんおられるでしょうけど、数日前に書いたとおり、私は「人間の気持ちが追いつける変化のスピードには限界がある」という立場です。
たとえ壊れた建物でも、住んでいる人、利用している人の気持ちを無視して性急に手を入れようとしたらそれだけで紛糾のもとになります。
地図や写真を見ながら簡単に線をひくのではなく、たとえ回り道に思えたとしても、そこにいる人たちの気持ちを尊重していただいたほうが結局は復興が早まるのだと思います。

震災65日目

日本全国で稼働している原子力発電所の数が減り続けています。
被災して動かせなくなっているものの他に、安全性が確保できないとして停止することになったもの、現在点検中で再度動かし始めることに反対意見の出ているもの。
このままでいけば各電力会社の発電能力は大幅に低下するので、その分の埋め合わせのために一度は使わなくなっていた火力発電所をまた動かす、という話もあるようです。

でも、そもそも火力発電は他の発電方法が開発されれば順次縮小していく予定だったものですよね。
火力発電は石炭や石油を燃やしてできた熱エネルギーを電気エネルギーに変換するしくみですから、
「燃焼による二酸化炭素の排出の問題」
「燃料である石油、石炭、天然ガス等の資源の枯渇、確保困難の問題」
がとりざたされていたはずです。

震災以降、なんだか忘れ去られてしまった感のある地球温暖化問題ですが、日本人の危機意識が別の問題に集中していようが、規制する法律が緩和されようが、化石燃料を燃やせば地下に固定されていた炭素が大気中に放出されるという自然科学の法則に変化はありません。

原発を止めようと活動している人たちの何割が
「だからといって、火力発電を増やすのも反対!」
としっかり言い切ってくれるでしょうか。

震災64日目

普段の生活のなかではほとんど意識しないけれど、時間の流れが止まることはなく、永劫不変のものもありはしません。
地球の全生態系を支えている空の彼方の水素爆弾も、いつかは燃え尽きる運命にあります。
そこまで長い時間を考えなくても、子供たちは毎日毎日成長していくし、お年を召した方達は順番に旅だって行かれるでしょう。
そんなことをほとんどの人が毎日意識しないですんでいるのは、たいていの変化が比較的ゆっくりしていて、私達の忘却と歩調をあわせてくれているからではないでしょうか。

あまりにも急激な変化がおきると、人間の心のほうがついていけなくて、取り残されたように感じてしまいます。
「もとどおりの生活」といっても時計を巻き戻すわけにはいかないので、せいぜい「もとどおりに近いペースの生活」をもう一度作りなおすことになるのでしょう。

記憶に残っているもの、失ったものが多い人ほど、変化した後の世界、そこで作りなおされたものにはなじみにくいのだろうと思います。
それを後ろ向きだと責めないで、昔をしのぶよすがになるものを何らかの形で残しておくことはできないでしょうか。

震災63日目

しつこいようですが、昨日一昨日の話題を継続させていただきます。

赤ちゃんや幼い子供達のケアを担うのは第一にお母さん、お父さんであると書かせていただきました。
逆に言うと、一番心配なのはそういった「その子のことを何よりも大切に考えてくれる人」が失われたお子さんたちのことです。

ご両親を震災で亡くした人。もともと母子家庭や父子家庭であって、ひとり残った親御さんを亡くした人や事情があって一緒に暮らすことができなくなっている人。

子供は職業の縛りがないことで比較的容易に他の地域に疎開されることが多いと思いますが、住み慣れた土地や仲良しのお友達と別れて暮らさなければならない子供さんたちの気苦労は大変なものだと思います。
また、ご両親と一緒に疎開されているとしても、大人の人たちが生活のために走り回っているあいだ、家に取り残された子供さんたちがどんな気持ちで日々を過ごしているのか、とても気になるところです。

もし、あなたのお住まいの地域に被災地から疎開してきたご家族や子供さんがおられたら、慣れない地域で孤立してしまわないように気にかけてあげてくださいね。

震災62日目

昨日の話題の補足です。
赤ちゃんや幼児さんの心のケアといっても、いったい何をしたらいいのかという疑問が当然あがると思います。

よそ者の精神科医や心理士がいきなり面接して
「お悩みではありませんか」
なんて聞いてもナンセンスですよね。

小さいお子さんのケアが一番上手なのは毎日お世話をしている人です。
お母さん、お父さん、おじいちゃんおばあちゃん、担当の保育士さん。幼稚園の先生。普段から大好きな人たちがずっとそばにいてくれること、お話ししてくれること、安心させてくれることが何より。
当たり前なのだけど、大事なことです。

そういった立場の人たちが他の仕事や用事で忙しすぎたり、疲れきってしまったり、周囲に気兼ねして子供たちのお世話がきちんとできなくなることが問題なのだと思います。

ですから、子供のお世話をしている大人にはそうでない人の何倍もの援助が必要なのです。
小さな子供さんたちの親御さんはまだまだ若くて働き盛り。お年寄りの多い地域でがんばりすぎてしまわないよう、気をつけてあげて欲しいのです。

震災61日目

関西版だけでしょうか。
東日本の二ヶ月目特集記事がひしめく朝日新聞の社会欄のすみに、こんな小さな記事がありました。
「兵庫県が昨年11月に行った阪神淡路大震災遺児の実態調査結果」
アンケートの回答者は410人中74人と比較的少数ではあるのですが、心の健康状態を測る数値が平均より低い人が半分強、なかでも特に低値だった人たちは被災当時小学生以下だったとのことです。

あれだけ心のケアが大切と叫ばれた結果がこれなのかと思うと悲しいのですが、この記事から教訓を得るとしたらどうでしょうか。

大人の考えのなかに、「小さい子供は状況なんかわかっていないから深刻に悩むことはない」「言ってもわからないのだから、わざわざ悲惨な話を説明することはない」「育っていくうちにしんどいことなど忘れてしまうだろう」といった予断はないでしょうか。

本当は自力では状況がわからない、自分では状況を変えようがないからこそ注意深いケアが必要だし、わかる範囲での丁寧な説明が必要なのです。わからないまま、傷ついたまま手当をされないことで、どれだけ長期間不安定な気持ちを引きずることになるか、この調査が教えてくれていると思います。

幼い子供達の心を傷つけるのは災害ばかりではありません。
交通事故や虐待、性犯罪被害などについても、リスクに違いはないでしょう。
「子供には何もわからない」と考える大人のほうが何もわかっていないのです。

震災60日目

食物や環境の安全性を議論するとき、ときどき見かけるのが
「リスクは絶対にあってはならない。誰にとってもどんな状況でも必ず安全と言える基準を教えろ」
と主張する人たちです。
これは回答する側にとってはたいへん答えにくい要望です。
その理由のひとつは人間がヒトという生物であるがゆえの個体差の幅です。

年齢、性別、遺伝素因、持病の有無や今まで暮らしてきた環境などによって、病原菌や放射線や化学物質に対する人間の抵抗力にはとても大きな差があります。

ものすごく極端な例をあげれば、生のハチミツの摂取は腸内細菌叢が安定しない乳児にとってはボツリヌス症の原因となり、命にかかわる危険性を伴います。
だからといって、ハチミツの流通は規制されていませんね。1歳以上の子供や大人にはまず問題がないからです。
アルコールだって遺伝的に代謝酵素をもたない人(日本人にはけっこう多いです)が飲み過ぎれば死亡事故をおこします。

これらについては、消費者側が年齢や個体差を考慮して適切に飲食することが期待されているわけです。

誰にとっても安心安全をつきつめていくことには、相応の対価が発生します。生産物の廃棄率は高まるし、エネルギーは余計に喰うし、結果として環境への負荷も増大します。それでなくても、私達の生活を単調で味気ないものにしてしまうでしょう。
自分や家族にとって「大丈夫、問題ない」といえる消費生活を上手に選択していくこと、「一番安全なもの」は特に抵抗力の弱い人たちに譲る度量をもつこと、他人任せではない主体的な行動ができる消費者になっていくことって、ちょっと素敵だと思いませんか。

震災59日目

もう一冊、今読んでいる本からの話題です。

「昆虫未来学」藤崎憲治
前半で昆虫学の基礎を簡明に解説し、後半では広く地球生態系の維持に昆虫のはたす役割と、そのバランスが崩れた時の指標としての役割などについて論じられている力作です。
この本のなかで気仙沼の「森は海の恋人」運動がとりあげられています。
これは地元の牡蠣養殖業者さんがたちあげたNPOで、気仙沼湾の赤潮被害を軽減するために、湾にそそぐ大川の上流に植林をしよう、という遠大な計画なのです。
森が健康であれば、そこから川に流れ込む有機物が海のプランクトンの発育に関与し、魚や牡蠣の生育を守る。
そんな話を読むと、被災地の復興といっても「沿岸部に住めないなら高台を切り開いて開発しよう」なんて安直にはすすめられないと思えてきます。
地震を生き延びた山林をいかに保全するかが、海の復活にもかかわってくるということなのですから。

震災58日目

今、手元に一冊の写真集があります。

「不思議可愛いダンゴウオ」
著者は南三陸町でダイビングショップを営みながら、東北の海のおもしろさをダイビング界に広めてきた方です。
この本には体長数センチしかないサクランボみたいな魚さんたちと、志津川河口域の美しい海の写真が紹介されています。
お店のスタッフの皆さんは幸いご無事とのことですが、海の中はどうなっているのでしょうか。

楽観的な材料。
リアス式海岸の生態系はこれまでも数十年ごとに津波被害を乗り越えてきているはずだということ。
悲観的な材料。
海にのみこまれた文明の生産物のなかには、これまで生態系が出会ったことも無いような影響を及ぼすものがあるかもしれないこと。

神戸の海に沈んだ港湾の建造物は、今や藻類におおわれ、魚礁と化しています。
そのようすを記録し続けている地元のダイバーもおられます。
大阪湾の魚たちが度重なる埋め立てや汚水の流入にめげずにしたたかに生き続けているように、東北沿岸の魚たちが地震や津波や放射性物質の影響を乗り越えていってくれることを祈っています。

震災57日目

日本列島はおそらく有史以前から何度も地震や津波にみまわれてきたのでしょう。
人間が記録を残すようになってからも何度も大災害は起こっているのですが、文明が発達するにつれて、どんどん問題が大きくなってきている部分もあるようです。

人口が増大して人々が密集して住むようになったことも災害規模の深刻化に影響しているのでしょうが、もうひとつ気になるのは「がれき処理」の問題です。

江戸時代までの建造物は見方によっては地震による倒壊や火災による焼失を見越して作られていたかのようです。
主な建築資材が土と植物なのですから、燃えれば灰と化し、流されれば朽ち果て、潰れたものの解体もさほどの労力を要しません。
私達の祖先は、わざわざ建て直すことを前提に壊れやすい家に住んでいたのではないかとさえ思えます。

最近の建造物は災害に立ち向かい、燃えない、こわれない、流されないことを目標により堅牢に、より巨大になってきたようです。
ところが、今回の災害で、どんなに丈夫に作ったはずの建物や堤防でも、強大な自然の力には抵抗しきれなかったことがわかってしまいました。

あとに残されたがれきの山が、また悩みの種なのです。
なまじ燃えない、腐らない、重くてかさばる鉄筋コンクリート。
まとめて埋め立てるくらいしか処分の方法がありません。

ものを作るときには廃棄する時のことまで考えておかないといけない。
理屈はそのとおりなのですが、これだけのがれきの山が出現するとは誰にとっても想定外だったでしょう。

あとはその捨て場がどこになるのか、最後まで目を離さないでいたいと思います。

震災56日目

国内では集団食中毒事件、国外ではテロリズムの応酬。
新聞やTVのトップニュースがとうとう震災以外の話題で占められるようになってきました。

もちろん、誰もが地震を忘れたわけではないけれど、人々の関心が時間とともに移ろっていくのは避けられません。
そうしてこれからが、被災者にとって本当にしんどい時期になるでしょう。

連休も終わり、それなりににぎやかだった場所が静かになってから。
非日常が終って、どうしようもなく変質した日常がこれから繰り返されるのだと気づかされた時。

「そばにいるよ」「忘れてないよ」の声が必要とされるのはこれからです。

震災55日目

電気料金の値上げがニュースになっていましたね。

原発事故の被害者への賠償に関しては電力会社の役員の収入を減らし、資産を崩して工面せよ、というのも人情でしょうが。
そのあたりを抜きにしても、電気料金の値上げは当然のことだという気がします。

原発を維持するにしても、今まで以上に安全対策や管理の徹底をするなら、それだけのコスト増になります。
原発を停止して代替エネルギーを利用するには、開発費や施設の建造費がかかります。
いずれにしても、生産コストが上がり、供給が減っているのに需要がそのままなら販売価格が上がるのは当たり前でしょう。
節電のモチベーションを高めるのには値上げほど効果的なものもないでしょうし。

では、今度の夏に高齢者や低所得者が冷房をがまんして熱中症が続発するのでしょうか。
熱力学の第二法則を学んだ人には自明だと思いますが、室内を冷房するということはそれ以上に室外を加熱しているということなのです。
去年の夏、私が生まれて初めて寝室にエアコンをつけてしまったのは、お隣のエアコンから排出される熱気に耐えられなくなったからでした。

みんなが一斉に冷房をやめれば都市全体としての気温はさがるはずなのです。
がんがん冷房を使う人は、そうでない人の生活空間をどんどん暖めているのだということを自覚して欲しいです。

震災54日目

デパートの酒販コーナーに行ってみたら、
「東北応援キャンペーン!」と銘打って、かの地の地酒がずらりと最前列で販売されていました。
さっそく福島県は南会津郡のを1本買ってきました。

閑話休題。

避難所や仮設住宅でのメンタルヘルスは衣食住の次に重要な問題だと思います。
とりあえずの食料が確保され、寝起きするところが定まり、生命の危険は一応去ってほっとしたけれども、仕事がない、先の見通しがたたない、今すぐにしなければならないことがない、あるいはできない。
そんなふうにぼんやりと日々を過ごさねばならなくなったとき、アルコール問題のリスクが必然的に高まってきます。
特に気をつけたいのは一人暮らしの高齢男性です。
大切なものが残っていない、周囲の人と話す機会がもてない、生きるはりあいがない。
そんな心の隙間をお酒でうめないですむために、気をつけてくれる人が必要です。
他の地域から酒類を持ち込む人もちょっとだけ用心してくださいね。

震災53日目

今回の被災者支援、神戸市の盛り上がりようはちょっと他にはない感じです。
市民の声がいけいけどんどん状態で後押ししているだけじゃなく、財界も行政も率先して動いている感じがします。
大阪と比べても熱さの違いがわかるくらいです。

とはいえ、市民のなかにも温度差はやはりあるもので、一番フットワークの軽いのは40歳代50歳代のおじさんおばさんたち。
つまり、阪神淡路の時に最前線で働いていた世代なんですね。
その人たちが今や会社や役所の管理職クラスになっていて、先頭きって旗をふっているわけです。
かえって若い世代の人たちのほうが受け身な印象がするのは私だけでしょうか。
大学生などでも震災後に転入してきた人たち、他の地方から下宿して来ている人たちなどはとまどいを感じているかもしれませんね。

直接に被災体験をした人だけが動くのでなく、その体験をどうやって若い人たちに伝えていくのか。
「被災時に仕事をしていなかった人たちにこそ、現地派遣の仕事を引き受けてもらいたい」という同僚のことばが印象に残っています。

震災52日目

日本の言論はとりあえず現政権と電力会社の悪口さえ言っていれば誰も反対しない、というお気楽な状況に染まってきているようです。
生徒のご機嫌をとってイジメの片棒をかつぐ教師みたい……では言い過ぎかも知れんが。

確かに初動でちゃんとした動きがとれなかったこと、そのため後々までひびく問題を残してしまったことはその通りなので、それについての批判はしかたないでしょうけど。

リーダーシップにもいろいろあって、地震発生直後や原発事故なんていう超緊急時にはスピード最優先の強行策が必要なのは確かです。
でも、長期間にわたる被災地の復興についてはどうでしょうか。

強力なトップダウン型の行政というのは、辛口に言えば選ばれた一部(それが最多数はであるにしろ)の利益を最優先し、その他の言い分を黙らせるということです。
復興期にこのような強権が発動されると、幹線道路の車線を増やすためにその土地に住めなくなる人がでるといった事態が生じます。
交通網や基幹産業ばかり充実しても、沈黙させられた人たちの気持ちは浮かばれません。

土建業者の声ばかりが通る復興なんていりません。
これからはむしろ、地域ごとの小さな声に耳をすませてそれぞれの言い分を調整していくきめ細やかで根気のいる仕事が求められているはずです。
それが可能なのは国家単位のプロジェクトではなく、もっと身近で個別の動きなのだと思います。

お上が何を言っていてもあてにしないかわり気にしない、そんな独自の動きがあってかまわないと思います。

震災51日目

暦どおりの連休をいただき、だらけきっております。

年齢のせいで体力的に無理がきかなくなってきたのは自覚していたけど、気力もやっぱり持ちが悪くなってますね。
いつもとかわらずに仕事しながら、ニュースや知人の情報を聞きかじっていろいろ考えているだけなのに。
休日になって、今までけっこう肩が凝ってたんだなと気がつきました。

まだまだ大変な状況にいる皆さん、しゃかりきになって働いている皆さんはもちろんですが、「私なんて何もしてない、できない」と思っているみなさんも、今までよりも見聞きすること感じること考えることは確実にヘビーになっています。

休める時にしっかり休む、休めないと思ってもできるかぎり休む時間をつくる、それくらい用心したほうが良さそうですよ。
まだまだ先は長いんです。

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