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2011年11月の記事

暴力論7 ごめんなさい

ここまで書いてきてようやく、自分が言いたいことをどう言い表したらよいのかがなんとなくわかってきました。
要は、「手段としての暴力」は、なべて「安物買いの銭失い」。
その場では効果的に見えても全体としてみれば加害者も被害者も損することばかり、それがわかればやたらと暴力に訴える気持ちはおこらなくなるだろうし、暴力をふるっている相手に接しても「あっちばっかり手を出すのはずるい」とか「やられっぱなしじゃ割に合わない」なんてことを考えなくてすむだろう、ということなのです。
ですから、最初の提言で
「暴力の行使も仕方ないという状況を例示して欲しい」
と書いたのは、正しくは
「暴力を行使したほうがお得だという状況を例示して欲しい」
とするべきだったのでした。
まじめに反論を考えてくださったみなさん、ごめんなさい。
で、個人レベルの正当防衛に関して私の考えをまとめると、防御と逃走はあり、逃走のために手をふりほどくなどしてたまたま相手の手足にあたってしまった、というのは致し方なし、こちらからの積極的反撃は損することが多すぎ、というあたりになると思います。
問題は「正当防衛」という言葉の意味を深く考えずに拡大解釈する人たちがあまりにも多いことだとも思います。

暴力論6 正当防衛の正当性はどこで決まるのか

今から書く内容は純然たるシミュレーションで、実在の事件についての考察ではないことを始めにお断りしておきます。
「ふたりの男が争っている」という通報を受けて警官が出動しました。
現場に到着してみると、似たような背格好の成人男性がふたり、取っ組み合いのけんかをしていました。
もし、片方が防御一方で逃げ回っていたり、片方だけが刃物を振り回していたりしたら、警官はためらいなく逃げている人を守り、刃物を持った人を取り押さえていたでしょう。
ところが、ふたりともが素手でつかみあい、殴り合っていたとしたらどうでしょう。
あいだに割って入るだけでは両者の興奮は収まりそうにありません。
ならば、目の前で拳をふりあげたほうをとりあえず押さえることしかできないのではないでしょうか。
ふたりのうちどちらかが先に攻撃をしかけた、というのは過去の状況です。
片方を取り押さえた結果、自由なほうが相手を一発ぶんなぐって気持ちをおさめるか、かたわらのカッターナイフをつかんで突き刺しにかかるか、というのは未来のことなので、現時点では予測不可能です。
現在進行形の争いでは、それぞれに「暴漢」「正当防衛」とラベルがはってあるわけではありません。前後の文脈を切り離せば、やってることはまったく同じ、暴力の行使でしかありません。
正当防衛の名の下に拳を振り上げる人は、その行為自体は純然たる暴力であること、その正当性を判断するのは自分ではないことくらいは理解しておいたほうがよいでしょう。

暴力論5 正当防衛は抑止力になるか?

今から30年以上前のことですが、私自身が通学電車内で痴漢にあい、相手の手に思い切り爪をたててやったことがあります。
相手はすぐに手をひっこめてそれっきり降車していったのですが、今からふりかえると私の行為は適切ではなかったと思います。
当時の私には相手に反撃する気の強さはあったかもしれませんが、大声を出して「この人、痴漢です」と訴える勇気はなかったからです。
女性にとって本当に必要な勇気は性犯罪者をきちんと告発することです。
痴漢を訴える時にボールペンを持っていたなら、相手の手にパッテンを書いてやるだけで十分です。
わざわざ傷を負わせて損害賠償を請求される(たとえ勝訴するにしても多大な時間と金銭と精神力のロスになります)ことはないでしょう。

物理的反撃が抑止力になるかというと、そうはいきません。
もともと腕っ節に自信のないタイプの性犯罪者は、自分が反撃にあわない状況を注意深く選んで犯行におよびます。女性の性的な魅力に我を忘れて衝動的に、というのは加害者側がでっちあげた神話です。
魅力的な女性よりも孤立した状況、抵抗できなさそうな女性が標的になります。
一般の女性でも反撃されそうだと感じた時、性犯罪者はどうしたって反撃できない標的を選びます。
障害者と子どもです。
成人女性がいくら強くなっても、性犯罪者をきちんと捕まえて訴えないかぎり、より弱い人間が犠牲になるだけです。
世の中に求められているのは、勇気をもって痴漢やレイプ犯を訴え出た女性を援護することです。
女性に対して「自ら反撃して身を守れ」と強要することではありません。
「正当防衛が認められているのだから、反撃しないのなよくない」などという考えはもってのほかだと思います。

暴力論4 正当防衛にからむ実際的問題

このシリーズでは、なるべく抽象論は避け、具体的現実的な場面について実際の記録や経験をもとに話をしていきたいと思います。
世の中にはいわゆる究極の選択論、机上の空論が山ほど流布していて、現実にはありえない前提で議論をふっかける人たちがいます。
実際にはこの世の中で何らかの行動を起こすと(あるいは起こさないと)その影響はさまざまな方向に波及していくので、そういった結果を抜きにして議論をしても実際の役には立ちません。
さて、私たちが何らかの理由で暴漢に襲われたとします。襲ってくるほうにはそれなりの動機があるはずで、個人的な恨みかもしれないし、金銭目的かもしれないし、不特定多数に向けた行動かもしれません。
おそらく共通するのは、加害者側の動機づけのなかにある欲求不満、被害感、不公平感です。
「あいつのせいで被害をこうむった」
「自分が金に不自由するのは不当な利益を得ているやつがいるからだ」
「自分ばかり嫌な目にあうのは不公平だ。幸せそうなやつにも嫌な思いをさせてやる」
といった思考が意識的にせよ無意識的にせよ、後押しをしているはずです。
このような気分でいる相手に反撃を加えるとどういう反応をひきだすでしょうか。
前にも書きましたが、人間は得てして自分に加えられた危害を過大評価し、自分が加えた危害を過少評価します。
反撃は加害者側の被害者意識をもろに刺激します。
いわゆる「逆ギレ」状態です。
「そっちがその気ならこっちだってやってやる」
的に、自分が先攻したことも忘れて反撃している気分になってしまいます。
客観的にみれば相手が悪いのですが、もとよりそのような冷静な判断ができる相手でも状況でもありません。
あげくに
「あっちも手をだしたのに、なんで自分ばかりが責められる」
「やっぱり自分は虐げられている」
「このオトシマエはいつかつけてやるから覚えていろ」
といった考えに流れていきます。
つまり、過少な反撃は加害者を刺激して暴力を増大させるだけ、過大な反撃は逆恨みされて後腐れを残すだけとなります。
レイプ被害にあった女性がなかなか抵抗できないのは力の差だけではありません。
下手に刺激したら相手が逆上して身体的にも過大な被害をこうむるとわかってしまうからです。
直接的、個人的な暴力被害にあったときには、ともかく助けを呼びながら大急ぎで逃げる、相手の気をそらすためには反撃よりも音や光の刺激のほうが安全、というのが私の結論です。

暴力論3 このシリーズでお伝えしたいこと

子供どうしのけんかから私的な復讐、法律が認める正当な暴力、国家間の戦争にいたるまで、暴力が問題解決の手段として有効であると判断され、選択されることが数かぎりなくあります。

私の考えでは、「手段としての暴力」は、おしなべて「安物買いの銭失い」です。
その場では効果的に見えても全体としてみれば加害者も被害者も損することばかり、それがわかればやたらと暴力に訴える気持ちはおこらなくなるだろうし、暴力をふるっている相手に接しても「あっちばっかり手を出すのはずるい」とか「やられっぱなしじゃ割に合わない」なんてことを考えなくてすむだろう、ということを言いたいのです。

読者のみなさんは「暴力の行使も仕方ない、他に解決の手段がない」状況はいくらでもある、と思われるかもしれません。
そのような時にもちょっと考えてください。
本当に他の解決手段はないのか。
単に実行するのが簡単で難しいことを考えなくていい、という理由だけで暴力を選択していないか。
暴力をふるうことで生じる不利益を、将来にわたってきちんと考慮しているか。

こういったことを本気で考えていただければ、「暴力を行使するのがいちばんお得」な状況など、まずありえないし、「やむなく暴力を行使してしまった」あとには利益の何倍もの不利益をかぶることになる。そう気がついていただけると思います。

非暴力主義を唱える人は「人道」や「人権」を前面に掲げることがほとんどですし、それも間違いではないと思います。
しかし、「きれいごと並べても、最後には自分が大事じゃないの」と考える人、建前は建前に過ぎず、実効性をもたないと考える人には通じないでしょう。
私はここではなるべく建前論を排し、「本当に自分が大切なら、暴力をふるわないほうが絶対うまくいきますよ」と本音でお伝えしたいと考えています。

暴力論2 暴力の定義と範囲

法律にくわしい人の話によると、刑法上で正当とされる暴力には次のような種類があるそうです。
1 正当行為(例:罪を犯した者を刑務所に監禁する。)
2 正当防衛(例:強盗に対して反撃する。)
3 緊急避難(例:道路に飛び出してきた子供をよけるため車を脇の商店に突っ込ませる。商店大破。)

逆に言うと、上記の三つにあてはまらない暴力はすべて違法ということになります。
何の落ち度もない人に対して暴力をふるうことや、自分の正当性を主張するために殴り合いや決闘をすることはよくない。そう考える人はまあ多数派でしょう。

では、法律で許される暴力には何の問題もないのでしょうか。

「緊急避難」では人の生命や身体そのものでなく、物(財産)の損壊も暴力に数えています。

「正当行為」では、ある人の行動の自由を制限することも暴力の一種ではあるけれど、被害者をださない増やさないためにはやむを得ないと考えるわけです。さらにこのカテゴリーには「死刑」も含まれます。単なる行動制限でなく、犯罪者の生命を奪ってしまうという暴力行為にも正当性はある、と法律は言うわけです。

「正当防衛」では、自分が暴力をふるわれた時、ふるわれそうな時に暴力で反撃するのはやむなし、と考えます。これもまた、どのあたりまでが「やむを得ない範囲」なのかという疑問が残ります。たとえば、包丁を振り回して暴れている人を部屋に閉じ込めてドアを押さえるところまではしかたない。けれど、バットで殴って気絶させるのはどうか。包丁を奪って刺しかえすのはかまわないのか。

これからの議論のなかで、私はなるべく狭義の暴力、つまり、「人間が人間に対して直接物理的な力を行使することで相手の身体や精神に損害を与える行為」について話していきたいと思っています。
暴力を広義に解釈すると、物を壊すこと、行動の自由を奪うこと、性暴力、言葉の暴力、行為の強要などいろいろな要素が入ってくると思うのですが、これらを追求しだすと人によって線引きがまちまちで、定義だけでも収集がつかなくなってしまうと思うからです。

そういうわけで、まずは誰が考えても暴力でしょう、と思われる行為の正当性や結果について先に考えたいと思っています。

法律で許される範囲の暴力であっても、行動制限を超えた「正当行為」や「正当防衛」の内容についてもその問題点を考えていきたいと思います。

暴力論1 はじめに

世の中には簡単に解決できない問題が山ほどあって、悩みが高じてくると「暴力」によって決着をつけようという考えが常に頭をもたげてきます。
原則論として暴力はよくないと考える人でも、「状況次第ではいたしかたない」とか、「相手が暴力に訴えてくる以上、反撃するほかはない」という人はいくらでもいるでしょう。

確かに人類は今まで、たいへん簡単に「目的を達成する手段としての暴力」を行使してきました。「先例が山ほどあるのだから構わないじゃないか」とか、「暴力の廃絶なんて机上の空論だ」という意見も山ほどあります。

結果として、現代の社会においても「手段としての暴力」はあふれかえっています。大は国家間の戦争から、小は子供への体罰まで。それらを正当化する主張もとてもたくさん見られます。

私が疑問に思うのは、「手段としての暴力」を容認する人たちが、その影響力や危険性についてどれだけきちんと考えておられるのかということです。
暴力に訴えるのは案外簡単ですが、その後始末をつけることにどれだけの労力がかかるか、始末のつけようのない弊害がどれだけ残っていくか、そんなことまでちゃんと考えてからみなさん決断を出しているのでしょうか、と。

相手が悪い時には暴力をふるってもかまわない、という意見もよくあります。しかし、暴力は実は、加害者側にも深刻な影響を残します。「悪いこととはいえ、やったもんがずる勝ち」だと思われがちですが、一方的に相手を圧倒しているはずの加害者も不利益をこうむっているのだということを、どれだけの人が気に留めているでしょうか。

私の主張したいことは、まず「暴力は加害者にとっても被害者にとっても割に合わない、問題解決の手段としては最低の選択である」ということです。
それがどれほどペイしないか、みんながもっと理解すれば世の中もっと住みやすくなるのに、と本気で考えています。

当たり前のことを書いているようですが、相手が誰であろうが、状況がどれほど困難であろうが、例外なく「ペイしない」と私は断言します。国家間の紛争も、死刑制度も、子供への体罰も、すべてです。
もちろん、ペイしないことに気づかずに暴力をふるい続ける人たちもたくさんいますから、被害者がなるべく増えない方法、被害が深刻にならない方法は考えなければなりません。だからといって、気がついていない加害者になら暴力をふるってもいいということにはなりません。

一方で、どんなに温和で平和主義な人でも、状況しだいでは「理不尽な暴力」をふるってしまいそうになることも事実です。人間である以上、そういった衝動を自覚してつきあっていかなければならない、そのためにも「理不尽な暴力」がどのようにして発生するのかについても考えていきたいと思います。

最終的には、以上のような話を理解しようとしない「わからんちん」な人が私たちの隣人だったとして、こちらが同じレベルに堕ちずにつきあっていくためにはどうすればよいか、そこまでたどりつけたらいいな、と思っています。

「暴力論」の連載を再開します

震災関連の記事を書くことを優先して延期していた「暴力論」の連載を明日から再開しようと思います。
今年の3月に3回分だけ掲載しましたが、読む方の便宜を考えて、最初から載せなおしますね。
結構な分量なので、25回くらいかかると思います。
今回はとくに時事性は重要でないお題なので、お暇なときにゆっくりお読みいただけるとうれしいです。

食べられませんよ(蜘蛛画像注意)

iTuneをいじっていた次男が「早く来て!」と呼ぶので何事かと思ったら。

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ディスプレイにとまったハエトリグモさんが、カーソルを獲物だとでも思ったのか、じりじりと追い回していたのでした。
かっわいい!


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