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2011年12月の記事

暴力論33 ひとまず終了

だらだらと書き続けてきた「暴力論」ですが、このあたりで一旦、区切りをつけたいと思います。

常日頃考えていることで、まだ書いていないテーマもいくつかあります。

暴力を引き出し、利用しようとする言論について。
「挑発」「威嚇」のほかにも「扇動」「揶揄」「讒言」「罵倒」など、ことばそのものが持つ暴力性について。

性暴力について。とくに性を理解したり、身体の準備ができる以前に被害にあった子供たちや、男性の被害者について。

「何もしない」「知ろうとしない」ことの問題について。放置すれば被害者がでるとわかりきっている状況をみすごすことについて。

いずれも書き出すとまた長くなるので、またその気になったとき(おそらく、どなたかがまた私を怒らせたとき)にエネルギーをいただいて取り組みたいと思います。

生まれつき暴力的な人間の赤ん坊はいません。
社会の中で最弱者である子供は大人の暴力被害にあうことで暴力を手段として学び、生き残るために暴力的に成長します。
あなたが理不尽な暴力被害にあいたくないなら、児童虐待を減らすことに協力してください。
そして、虐待する親を減らすために、弱者に凝縮される被害者感情を緩和することを考えてください。
まちがっても、復讐や正当防衛の名の下に、新たな暴力の種をまかないでください。

私の主張すべてに賛同できない人も、この機会に暴力という手段について考えていただけたのなら幸いです。

暴力論32 加害者をやっつける前に

 被害者にできるもっとも初歩的な自衛手段は「いやです」「やめてください」とはっきり意思表示すること、それでも加害者が聞き入れないときには、さっさと逃げ出して他の人の助けを求めることです。
(ものすごく当たり前に聞こえるかもしれませんが、加害者が顔見知りだったり圧倒的な力の差を誇示されたりすると、なかなかうまくいかないものです)
 一番へたくそな対処は暴力で反撃しようとすることと、当事者の間だけでことをおさめようとすることです。
 その理由についてはこれまで何度も書いてきました。

 さて、被害者から助けを求められた人はどう対処するのがよいでしょう。
 最悪なのは無視、無関心です。
 自分の手にあまると思ったら、せめて助けになりそうな人を一緒にさがしてほしいものです。

 助っ人がそろったら、最優先すべきは被害者の安全を確保することです。
 うっかりして加害者が被害者に接触できる状況をのこしたままで加害者をやっつけたり叱ったりすると、とんでもない結果を生みます。
 当たり前に聞こえるでしょうが、小学生のいじめ相談を受けた担任から国際社会の人権論争まで、被害者無視の加害者糾弾が生む悲劇はやまほどあります。

 被害者をしっかり守ってから、もし加害者に何か働きかけるとしたら、「手段としての暴力はともかくまちがっている」が、「目的や心情については話しあえる」とはっきり伝えることでしょう。

 それでなくても加害者は、自分の存在が他者にないがしろにされていると思いこみやすく、強者は弱者を徹底的に踏みつぶすと信じているわけですから、その信念に荷担するようなアプローチは有害無益です。

 目的が正しければ手段が正当化されるというのが、いやになるほどありがちな誤りです。また、手段をまちがえている人は問答無用で叩きつぶすというのも同じくらいの誤りです。

 殴り合いで勝ったほうの意見だけが尊重されるなんて、じゃんけんで法律を決めるくらい根拠のないことだと思いませんか。

暴力論31 暴力を防ぐために暴力をふるうことの問題

 暴力をふるう人、ふるおうというそぶりをみせる人、暴力を背景に威嚇や脅迫をしてくる人。そんな人たちとかかわってしまったときにどうすればいいのでしょうか。

 一番重要なのは、相手の価値観や思惑にまきこまれないことだと私は考えます。
 暴力が手段として有効だと考えている人たちは、対人関係を強者と弱者、加害者と被害者という上下軸で考えることしかできません。
 対する私たちも、相手にやられるかやりかえすか、どちらが上位に立つかなどと考え出した時点で、既に暴力的な関係性を肯定してしまっているのです。
 暴力に屈して相手のいいなりになるのもおかしいのですが、逆に反撃を加えて相手をやりこめてしまうのもまちがいです。
 そんなやり方では相手は「暴力勝負で自分が負けた」とは考えても、最初に暴力に訴えたことが間違いだったとは思いません。それどころか、「弱いやつは強いやつのいいなりになるしかない」という信条を強化されるだけです。
 あなたにぶちのめされた「悪党」は、仕返しのためにもっと強い手段を手に入れようとするか、自分より弱い人をみつけて虐げるかでしょう。

 最終目標は加害を試みる人に「ここで暴力をふるったり脅したりしても自分に得はない」と理解してもらうことと、「他の方法をとったほうが自分の被害をとりもどせそうだ」と感じてもらうことです。
 そのためには相手がこうむったと感じている被害について冷静に話を聞き、一緒に対処を考える姿勢が必要になります。
 上下関係はどちらが上になっても後で問題を残します。どちらかが自分の言い分を全面的に通しても何も解決しません。対等の関係でお互いの利害について話し合うこと、暴力は手段として否定するが、その目的については別の方法で解決をはかることが基本でしょう。

 もちろん、自分中心の考えに凝り固まっている人、暴力以外の手段を知らない人、衝動的攻撃的で考えるよりさきに手のでる人はいくらでもいます。だからといって、そういった人たちを排除するとか制裁するとかいった方法では、うまくいかない考え方や行動パターンの修整はできません。
 被害者を増やさないために最低限の防衛は必要でしょうが、そこには「防衛のための先制攻撃」とか「反対勢力の根絶」とか「二度と逆らう気がおきないようにぶちのめしておく」とか「被害者の苦しみを自分で味わえばいい」といった考えは決して混じってはいけないのです。

暴力論30 過渡期の難しさ

 日本の国内では暴力沙汰にまきこまれたり目撃したりする機会は減ってきています。これはけっこうなことなのですが、ごくごくたまに暴力と遭遇してしまったときに、対処が難しくなっている面もまたあるようです。

その1
 相手がいきなり暴力をふるったり、威嚇してきたときに、とっさにどう対応したらいいかわからない。焦って相手のペースに巻き込まれてしまい、事態を悪化させてしまう。

その2
 暴力に対する拒否感情と、暴力をふるってしまった人に対する拒否感情が混同される。暴力的な人を例外的な存在として排斥する傾向がすすむ。

その3
 直接の暴力以外の理由で被害感や閉息感をつのらせている人が、いきなり暴力的な手段に訴えることがある。加減を知らないことが暴発につながることがあるようです。

 だからといって、暴力的な環境に慣れ親しむことが解決策なわけがありません。
 伝染病の免疫をつけるためと称して病原体をばらまくのと同じくらい無意味なことです。
 私たちが自分自身と大切な人たちを守るために必要なのは、正しい知識と日頃からの心構えでしょう。

暴力論29 日本社会は物騒か?

数日前の新聞に「日本の年間殺人発生件数が戦後最低を記録したのに、マスメディアはなぜ大々的に報道しないのか?」といった趣旨の論説がのっていました。

犯罪白書を調べてみると、確かに殺人の件数はわずかな増減を繰り返しながらもじわじわと減り続けています。この数は欧米諸国と比べてもずいぶん少ないようです。

そのわりに、世の中が平和で安全になった気分がしないのはなぜでしょうか。

ひとつには暴力犯罪の少ない状況に日本に住む人たちが慣れていること、もうひとつは暴力に対する人々のまなざしが年々厳しく、批判的になっていること。
これらが関係しているのではないかと私は考えています。

人殺しや暴力沙汰が日常茶飯事で、常に護身に気を配らなければ暮らしていけないような国に住む人たちは、多少の個別事件にはニュースバリューを感じないでしょう。
日本に住む私たちは「人間は暴力被害にあうことなく生涯暮らすのが当然」と意識しているからこそ、暴力の理不尽さに腹をたて、報道を読みあさるのだと思います。

また、殺人や傷害が減っても性犯罪や恐喝、詐欺、窃盗などが減らなければ安心安全な国という実感は乏しいでしょう。
私たちはここまで暴力犯罪を減らしてこれたのですから、それ以外の犯罪についても十分とりくんでいけるはずだと思います。
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暴力論28 職業と暴力

このシリーズの最初のほうで「誰もが多かれ少なかれ、子供を虐待するリスクをかかえている」ことを書きました。

実際、子供を蹴ったり殴ったりする親の、職業、社会的地位、経済力などはとくに決まっていません。
(庭付き一戸建の室内では子供が泣き叫んでもアパートほど周囲に音が聞こえないとか、経済的に安定した生活を守りたいがために母親が父親の仕打ちを黙認しているとか、親が言葉巧みに子供が悪いせいにしてしまうとかいったことがあるので、社会的に安定した階層の虐待のほうが発見されにくい傾向はありそうです。)

たとえば医師、看護師、薬剤師、保健師、介護士など人命や健康を守るべき立場の人たち。教師、保育士、福祉施設職員、弁護士、消防士、電車バスの運転手など生活の安心安全を守るべき立場の人たち。美容師、調理師、大工、重機オペレーターなど刃物や危険物を扱う職業の人たち。そして警察官、自衛官、検事など法的に暴力を行使したり、それを許可したりすることを認められている人たち。どこにも100%の例外はありません。

もちろん、職業人としても家庭人としても暴力とは無縁の生活を送っている人が大多数だという前提で話をしています。それでも一定の条件がそろえば暴力をふるってしまう危険性を、たいていの人がかかえているし、他の人よりも暴力的になりやすい人たちがどこの業界にもいるということです。

体罰はいけないと頭でわかっていても、ついかっとなってしまって、という人もいれば、悪さをする子供は叩いてしからないとわからない、と未だに信じて公言している人もいるようです。

ほんの十数年前までは、職業場面できちんと行動できている人なら家庭で多少の横暴を働いていても深く追求しない、という風潮がありました。その結果がいろいろまずいかたちで社会にも影響を残すと知られるようになってきたのは最近のことです。

頭に血がのぼると子供をはりたおす外科医師。子供の前でハサミを振りかざして脅す美容師。反抗的な子供を蹴飛ばしてしつけだと言い張る警察官。私ならそんな人たちに手術やヘアカットや取り調べを安心してまかせられるとは思えません。

家庭という他者の目の届きにくい場面での行状を知れば、その人たちが(第三者の見ていない)他の場面でもルールを守って行動してくれそうかどうか想像がつくというものです。
職業上、他者に影響力をおよぼすことを認められている人ほど、委託された範囲を越えて行動しないようにしっかりしてもらわなければ、立場の弱い人間は安心して暮らすことができません。

人間の自制心なんて完璧とはほど遠いものです。
立場の強い人たちの自制心を応援するためには、お互いの見守り、風通しのよいオープンな職業環境がどうしても必要だと思います。

暴力論27 震災と戦災

東日本大震災からすでに9ヶ月がたちました。
死者・行方不明者あわせて2万人余という数字はあまりにも大きすぎて私達の想像を超えてしまうのですが、ご縁のある人のつながりをたどることで、あるいは新聞やTVなどの報道を通じて、一人ずつの死者負傷者がそれぞれ今の私たちと変わりのない人間であることがわかります。

私は平成7年1月17日に明石市に住んでいて、阪神淡路大震災をはじっこで体験しました。
災害の現場にじかに接した人たちは、人間の命や身体がいかに脆く、人間が作り上げたモノやシステムはいかに壊れやすいものなのか、またそれを作り直すのにどれほどの手間と時間がかかるか、いやというほど思い知らされます。

ところで、神戸は震災からさらに50年前、第二次世界大戦の末期に大空襲を経験しています。
このときの被害を正確に調べるのは難しいようですが、死者数が8000人を越えるというのが定説のようです。
戦災について実体験を語れる人は少なくなっています。それでも震災後の焼け野原や津波の後の荒涼とした光景を目の当たりにしたことで、私たちはそれ以前よりは戦争の惨禍を想像しやすくなったように思います。
自然災害で苦しむ人をひとりでも減らそう、被害を大きくしないための手だてをみんなで考えよう。そういった動きに反対する人はいないはずなのに、一方で私たちは災害以上の被害をもたらすための道具や設備も着々と準備しているのですね。

暴力論26 被害者感情

突然の喪失を経験した人は、最初、心に大変な衝撃を受け、混乱のなかで、これが現実のはずじゃない、嘘であって欲しいと考えます。
喪失が動かし難い現実だとわかると、次には猛烈に腹がたってくるものです。

暴力被害に限らず、自然災害でも不慮の事故でも病気でも違いはありません。
自分の身にふりかかった災厄に憤り、「なぜ自分がこんな目にあわないといけない」と怒る気持ちをどこかにぶつけずにはおれません。
そこで原因を求め、理由をさがし、責任を追及しようという気持ちが働きます。
ふりあげた拳を誰かにぶつけなければおさまらない。
加害者がはっきりしている時には、この気持ちがストレートにそこに集中します。

加害者がいるから腹がたつのではなく、腹がたつから加害者を捜してなぐりつけないと気が済まないのです。

怒りのエネルギーは事故の真相の究明であるとか、稚拙な災害対策への糾弾であるとか、同じ苦しみを繰り返さないための原動力として働く時も、もちろんあります。
しかし、犯人をみつけないではいられない、誰かが悪いことにしてそいつにも同じ苦しみを味わってもらわないことにはおさまらない、という気持ちが走りすぎることも問題を生みます。

たとえば救急医療の現場で、患者を救えなかった医療機関を一方的に責めるだけでは治療の難しい症例の引き受け手を減らすだけです。
また、犯罪が疑われる場合でも、最初に逮捕された容疑者をともかく断罪しなければ被害者の気がおさまらない、といった考えでは冤罪を増やしかねません。

いっぽうで、真犯人をつかまえて正しく刑を執行すれば、それで被害者の気持ちはおさまるでしょうか。
殺人犯をつかまえて死刑にしても殺された人は生き返りません。
怒りをぶつけて一時的に高ぶる気持ちをおさめても、被害者が本当の喪失感にさいなまれるのはその後です。
「悪い奴はやっつけたのだからこれでおしまいです」
「だから、いやなことはさっさと忘れて生きなさい」
このような考え方は、遺族や生き残った被害者の感情に沿うものではありません。

被害者感情を本気で尊重するというなら、喪失をかかえて今までの予想とはまったく異なってしまった人生を歩む人たちに末永くつきあうことが必要となります。
報復は、たとえそれが司法の手続きを正当に経たものであっても、長期間にわたる被害者救済の役にはたちません。

暴力論25 ルール違反をうらやむ前に

加害者への報復や懲罰に否定的な意見を述べると、よく次のような反論が返ってきます。
「悪いやつが得をするのを放置していいのか」
「正直にルールを守る者が損をするのでは、誰もルールを守らなくなる」
「罰則がなければルールは守られない」
こういった主張をする人の考えでは、
「抜け駆けをして笑うやつを許さないために、みんな我慢してルールを守っているのだ」
ということのようです。
はたしてそうでしょうか。

まじめに学校の授業に出席している生徒が、不登校の生徒をうらやんだとします。
「病気でもないのに、さぼるのはずるい」
一方では
「出席しなけりゃ成績が落ちるのに、なぜ出てこないんだろ」
と考える生徒もいるでしょう。
登校してこない生徒の状況はいろいろでしょうが、最終的には自分が不利になることに気がついていないか、わかっていても身動きとれない理由があるかどちらかです。納得づくで学校に行かないことを選ぶ生徒も社会的ハンデは覚悟の上でしょう。
登校できている生徒のほうが有利な立場にいるのですから、うらやましがったり、糾弾したりする理由などありません。自分もまねをして学校をさぼるのも軽卒でしょう。

暴力の場合は不登校と違い、被害者がいるだけにもう少し複雑です。それでも現実の加害者が「うまい汁を吸ってほくそえんでいるずるいやつ」といったマンガチックなイメージにあてはまらないことは確かです。
被害感情にかられた人は加害者に対してこういった「俺得」「悪いやつほどよく眠る」イメージをいだきやすいので注意が必要です。

現実には暴力文化のなかで生きる人たちはトランプゲームの「大富豪」を一生涯続けているようなものです。
大富豪はトップに居座り続けるために貧民ド貧民を押さえ続けなければなりません。それでもいつかは転落してド貧民です。
抜け駆けや謀略が当たり前の世界に住む人たちには安心も安定もありません。法的な処罰などぬきにしても、けっしてうらやむような人生ではないのです。

被害や抑圧にさいなまれる人は「自分の幸福を横取りした悪いやつ」をみつけて取り分を奪い返そうと考えがちです。
資産や機会をうまく配分するには現状のルールでは不完全でしょうが、だからといって暴力で自分の取り分を奪い返すとか、相手にことさらにダメージを与えることの正当化はできないと思います。

たとえ法律で認められた暴力でも、仕返しの手段に堕すれば被害者の加害者化を容認することになり、さらなる暴力の連鎖に荷担するだけとなります。

暴力論24 応報の行き着く先

暴力は人を傷つけます。死や障害にいたる深刻な加害はもちろんですが、肌の疵痕が跡形もわからないほど治る程度のものであっても、暴行を受けたという経験は一生涯、被害者に忘れられることはありません。
そこで破壊されたもの、失われたものは決して取り返しがつかず、無かったことにもできないものです。
現実の法秩序のもとでは被害者に対する救済、加害者に対する罰則というかたちで何らかの弁済をはかることが考えられますが、所詮は次善の事後処理であって、被害が本当の意味で帳消しにされることなどあり得ないのです。
ありえない救済を追い求めることで被害者は状況をさらに悪化させていくことがあります。
「目には目を」を実践して加害者に暴力をくわえても、暴力被害が増大するばかりです。一時的な鬱憤晴らしにはなるかもしれませんが、被害者の痛みの記憶がなくなるはずはないのです。
「自分がされたことを誰かにやり返す」その相手が自分より弱い者であれば暴力の拡散に手を貸すだけです。
身内を殺された人が犯人を殺しても(法的には死刑制度という手段をとるわけですが)最初に殺された人が生き返るはずはありません。

私は、法の名の下に権威がふるう暴力(司法、警察など)の唯一の根拠は被害の拡大を防止することだと考えています。
ここに被害者の心情救済であるとか、加害者への報復感情がからむと(いわゆるオトシマエ)話がおかしな方向へ進んでしまいます。
たとえば「死刑を覚悟で人殺しをする」「後で償うのなら暴力をふるってもいい」「こっちから仕掛けるから、そっちもやり返してくればいい」などという人がでてきます。
殴り殴られ殺し殺されでおあいこなどというのは報復主義、懲罰主義から生じる誤解であって、死体がふたつ転がる結果は決して帳尻のあうものではなく、周囲の人たちを含めて大きなダメージを残す社会的損失でしかありません。

暴力論23 家族文化の継承

私たち人間は他の人に向かって言葉をかけたり行動で働きかけたりすることで何らかのメッセージを発信しています。このとき、相手がどんな反応(言葉、態度)を返してくるか、ある程度予測をたててから動いているものです。
もっと言えば、期待する反応を引き出すために最初の行動を選択しているはずです。
予測の根拠になるのは今までの経験です。とくに、親のように長時間くりかえし接触している相手とのやりとりから基本的なパターンを学んだはずです。
各家庭に固有のコミュニケーションの傾向はけっこうあるのですが、どっぷり家庭の水につかっている間は気づきにくいものです。親元から外へ出て他人と交流しようとして初めて、自分の経験がすべての人に通用するわけではないと知ることになります。
父親が母親を毎日なぐるのを見て育ち、男女関係とはそういうものだと学んで育った女性が、そうではない家庭で育った男性と交際したとします。
暴力をふるわない男性は女性にとって望ましいお相手のはずですが、女性からすれば彼の反応は今までの経験からは説明のつかない不可思議なものに見えるかもしれません。
よくわからない反応をかえしてくる相手にとまどい、相手の行動を予測できない不安と折り合いながらも自分の経験を修整していける人もいるでしょう。
一方では、未知の文化をとりいれていくかわりに、幼い頃から慣れ親しみ、よくわかっている対人関係パターンを知らず知らず選択してしまう人もいます。
生まれた家や地域を離れても、似たような家族文化を背負った人どうしが呼び合い、くっついて文化を継承していく。その文化が個人にとって好ましいか否か、そんな判断よりもとりあえずの「慣れ、なじみ」が優先されてしまうことがあります。
夫の暴力に悩んで離婚した女性が再婚してもまた同じような暴力をふるう男性を選んでしまう。そういった現象が現実にはかなり起こっています。

暴力論22 暴力を前提としたコミュニケーション

自分の欲求をとおすために暴力をふるうことを前提として考えている人は、そうでない人を相手にする時にも特徴的な行動をとります。
なかでもよく使われる手法が、「威嚇」と「挑発」です。

「威嚇」というのは、自分にとって有利な条件を相手に飲ませるために、直接暴力をふるうかわりに「ここで引き下がっておかないと痛い目に会うぞ」という脅しをかけることです。暴力をふるわれることを恐れる相手が自分から行動修正することで、「相手の自主的な行動だ」と主張するのです。
「挑発」というのは、相手をばかにしたり言葉で傷つけたりすることで、相手から暴力を引き出す手法です。相手をむりやり自分の土俵にひきずりこみ、「先に手をだしたほうが悪い」と主張して公然と暴力をふるおうとするのです。

ふだんは暴力と縁遠い生活をしている人や、力関係では立場が弱いと自覚している人ほど、このような態度をとられたときに冷静な判断をできなくなる面があります。(そのような人ほど狙われやすいのも事実です)
ふいをつかれて相手の行動原理にまきこまれないためには、相手の目的や手法をある程度心得ておく必要があります。
威嚇に負けて言いなりになるのも困るのですが、挑発に乗ってさきに手を出すのも賢い行動ではありません。

「あなたのしていることは威嚇/挑発です。そのやり方はここでは通用しません」と言い切る勇気が試されるのです。

暴力に慣れ親しんでいる人達のあいだでは、このようなコミュニケーションが日常的にとりかわされ、お互いの序列を決定するのに利用されています。脅し、脅され、逃げようとする者は追いかけ、かかってくる者があれば力を量り、支配と被支配の関係だけで立場を決めていくわけです。

暴力論21 暴力を是認する人の行動

幼い子供はこの世の中では新参の客のようなものです。
親に誕生を歓迎され、自分の欲求を受けとめてかなえてもらうことで、子供は自分が「この世の中に歓迎されている」と感じ、「自分はこの世の中に存在するに足る」と自信をもつことができます。
逆に言えば、たたかれて育つ子供は世の中が自分を歓迎していない、世の中は自分に敵意をいだいている、と感じています。
歓迎されざる客がとる行動は、さっさとその場から退場するか、周囲の反応を無視してひらきなおるか、先客をおとしめて自分が優位に立つか、あるいは縮こまって息をひそめるか。
いずれにしても、今のありのままの自分が「OK」ではないのですから、どうにかして自分を変えるか、違うようにみせかけるかしなければどんどんつらくなってしまいます。
たとえ表面上社会に適応しているように見えても、このような人たちは自分が「ダメなやつ」だと、いつ指さされるかとひやひやしながら、自分の価値を誇示することに躍起になります。
役に立つ、人より秀でていると証明し続けないことには、いつけ落とされるか排除されるかわかったものではない。そう感じています。

能力のある人は、がむしゃらに上を目指します。周囲はすべてライバルですから、機会があれば蹴落とします。協定を結ぶのは条件がそろっているときだけですし、自分の欲求が言葉で通らなければ暴力をふるえばよい、相手もそのつもりだと思っているわけですから、本気で他人を信用するわけがありません。弱者には冷淡です。努力するものだけが成功すると主張することで、自分が価値ある人間だと思いこめるからです。

そこまで上に行けない、社会生活で自己顕示できない人たちは自分より劣る存在を傍においておきたがります。上司には従順で派遣社員に威張り散らす会社員。職場ではものわかりよくふるまうのに、家では妻に暴力をふるう夫。
人間関係を支配被支配関係でしか理解できない人は、目下と思っている人に意見されたり反発されたりすると過敏に怒ります。隠している劣等感をあばかれると思うからです。このような人たちがよく使う言いまわしがあります。「あまやかすと、つけあがる」「なめているのか」「おもいしらせてやる」「誰に向かっていっているんだ」などなど。立場の弱いものの発言をはなから認めない態度がありありとでています。

さらに自分が無力で誰にも勝てないと思いこむ人たちは自己破壊的な暴力に陥っていきます。自傷や自殺は価値のない弱者である自分自身に向けられた暴力です。自傷の方法はリストカットだけではありません。アルコール依存や万引きの常習も自己を破滅させる手段と考えられます。夫に暴力を振るわれるとわかっていて離婚できない妻も、底にある特徴は似通ったものです。

外から見える行動のタイプはさまざまですが、自己不全感をごまかすために自己顕示に走るところは共通です。こういった人たちは「他の人を頼ろうとしない」「誰かに相談することをよしとしない、相談しているようでもなかなか言うことを聞かない」ところが似通っています。
他人は皆、敵なのですから、弱みをみせたり借りをつくったりしたら、いいようにつけこまれてしまうと考えます。そこでトラブルが生じてもこっそり自力で解決しようとします。たとえば病気の自覚症状があっても、出世にひびくなどと気にして仕事を休みません。周囲に隠しきれなくなる頃には、こじれきって手遅れになっていたりします。
どんなに強い人でもいつかは年老い、衰えます。権勢を誇り、周囲に尊敬されていると思いこんでいた人たちも、いずれ自分が手に入れたのは恐れと嫌悪でしかないことに気づく頃には、同じような信念を持った子孫に蹴落とされ、孤独な終末を迎えることになるでしょう。

暴力論20 被害者が誘発する暴力

体罰は子供の成長に様々な影響を残します。
子供の変化は一方で、加害者である大人も変えていきます。

たびたび暴力をふるわれた子供は周囲の人たちの動きに過敏になります。相手がかっとなったり手を振り上げたりしたらすぐに対処しなければならないので、落ち着き無くそわそわとしています。知らない大人に出会うと、その人が殴ってくるかどうか判断して態度を決めます。
相手がちょっとでもアクションをおこしかけたら過剰に反応します。相手の強さしだいで先制攻撃をかけることもあれば、その場かぎりの言い逃れをすることもあります。
しかし、いったん状況が収束すると(暴力を回避できたときも、やられてしまったあとも)そのことはすみやかに忘れてしまいます。
次の攻撃がいつ来るかわからないのに、じっくりものを考えたりぐずぐず悩んだりしていられないからです。

このような子供の態度は、たいていの大人には否定的に評価されます。
ちょっとしたことでかっとなる、甘くされるとつけあがる、自分のことを棚に上げて他人のあらさがしばかりする、みえすいた嘘をつく、いくら叱られてもこたえていない、といった感じです。
加害者である大人は子供がますます扱いにくくなっていくことに腹をたて、さらに加害がエスカレートします。
暴力をふるう人間は、暴力をふるうことに慣れ、ためらうことが減り、暴力の及ぼす影響に鈍感になっていきます。
はじめはおしりをぱんと叩く程度であっても、子供が親の前でひよひよした態度をとり、たたかれてもすぐにけろっとしているのを見ていると、ますますいらいらしてもっとひどい暴力をふるうようになっていきます。

親以外の人間もまきこまれていきます。子供は親とのあいだで学んだ人間関係のもちかたを他の大人にも使います。他の方法を教えられていないのでしかたありません。
たとえば学校で、暴力をふるわない教師の指示は無視して一方的に自分の要求を通そうとします。また、自分より立場の弱い子供に対しては脅しや威嚇を使っていうことをきかせようとします。それを止めにはいると人が変わったように怒り出します。
普段は「暴力はいけない」と考えている大人でも、毎日てこずらされると最後には「言って聞かない子は叩いても仕方ない」というところまで追い込まれていきます。あるいは、「私は自分で手をあげることなんてしない」教師でも、同僚が体罰をふるうのを見て「いいことじゃないけど、やむをえない。批判できない」と思ってしまうかもしれません。

こうなると、私が以前に書いた「弱者に対する暴力が防げなくなる三条件」すなわち
「圧倒的な力の差」
「加害者被害者の膠着した関係」
「外部からのチェック、内部監査の不在」
がすべてそろうことになります。

被虐待児を保護したあと、里親宅や施設で虐待が再現されるのにはこういった背景があります。同じようなことが少年院や刑務所でも起こっているのでしょう。

暴力論19 子供のコミュニケーション能力と暴力

言葉を話せない乳児は泣くことで親の注意をひき、空腹や不快を訴えます。
親は泣いている乳児に乳を与え、おむつを替え、抱きあげてあやしてやります。
これを繰り返すことで、乳児は自分の音声が意思伝達の手段になることを学び、やがては大声で泣きわめかなくても、ふさわしい声を出すことで相手に伝わることを学んでいきます。
親は乳児の世話をしながら声をかけることで、どのような音声がコミュニケーションの役にたつかの手本を示し、模倣をうながすことで言語表現力を育てていきます。

泣いた時にたたかれた乳児は、自分の意思表示が失敗したと学びます。驚きと恐怖で一旦行動停止したあとはどうなるでしょうか。
乳をもらえるまで、いっそう泣きわめき続ける子もいれば、泣くことをあきらめてしまう子もいるでしょう。
おだやかな音声言語が他者とつながる手段であるということを、この子供は学習しそこねたことになります。

もう少し育って手足を使えるようになった幼児は、自分の気持ちをうまく表現しきれなかったときに相手をたたいたり、噛みついたりすることがあります。
言語表現力がまだ十分でないからです。
このような時に、親は子供の伝えきれない気持ちをくみあげて、よりよい表現の方法を根気よく教える必要があります。
このとき、子供をたたくことはしつけになるでしょうか。

少し以前の新聞に、次のような笑えないエピソードが掲載されていました。

友達をたたいて泣かせたのにその場で謝れずに帰ってきた我が子を、親が頭を押さえつけて「ごめんなさいって言いなさい」としかりました。それから親は子供をつれて友達の家に行き「謝りなさい」と言いました。子供は友達の頭を押さえつけて「ごめんなさいって言いなさい」と言いました。

子供は親の行動をしっかり見てまねをして学びます。
子供の暴力を親が暴力で押さえ込めば、子供は「力の強い者は弱い者を暴力で従わせる」と学ぶだけです。

みなさんの周囲にも、「口で言えばわかることなのに、なぜそんなに安易に手をだすの?わざわざ相手が嫌がるような手段に訴えるの?」と不思議に思われるような行動をとる人がいるのではないでしょうか。
そういった人たちの一部は、幼い頃から「きちんと話をすれば相手に通じる」ことを学習していない、そういう能力を育ててもらっていないのです。
「口で言ってもきかないから体罰が必要」なのではなくて「体罰で育てたから口で言ってもわからなくなってしまった」のです。

このように育って小中学生になった子供の行動様式を修正するのは大変です。幼児期に学習し損なったところに戻って言語コミュニケーションを教えなおさないといけないからです。
ここで、教師や親以外の大人が「こいつは口で言ってもわからない」からと体罰を援用すれば、親が行った不適切な学習効果を強化するだけです。

暴力を暴力で押さえ込むという行動様式の行き着く先は、より強い暴力でないと抑えのきかない大人の誕生です。
そういった人たちを押さえ込む為に、警察や司法といった公的な暴力を使わざるを得なくなるということです。

暴力論18 子供をたたいたときに起こっていること

大人から子供にふるわれる暴力のほとんどは大人のやつあたり、うさばらしだというのが私の主張です。
 しかし、世の中には理解力の乏しい幼児をしつけるにはたたくことも有効だ、言って聞かせてもわからないのだから、たたくしかない、と主張する人もいます。
 痣や傷も残さない程度の軽いものなら子供の身体に影響を残さないし、記憶にも残らないだろう、と考える人もいるようです。
 はたしてそうでしょうか。
 
 幼児は自分の興味関心に忠実に行動します。大人のじゃまになったり、本人にとって危険な行動をとることもあるでしょう。
 包丁をさわろうとした幼児の手をぱちんとたたいたらどうなるでしょうか。
 幼児はびっくりして手をひっこめるでしょう。
 たたいた効果で悪さをやめたように見えるかもしれませんが、それではこの子は「包丁をさわったら危ない」ことを理解したでしょうか。
 幼児が手をひっこめたのは痛い目にあってびっくりしたからです。
 包丁の危険性については何の説明も受け取っていません。
 学習されたのは「親は自分をたたく存在である」ということだけです。
 では、手をたたく前か後で「危ないので包丁をさわってはだめ」と話して聞かせたらいいでしょうか。
 言語メッセージだけを受け取ったなら幼児は理解はともかく親の話に意識を向けるでしょう。しかし、暴力の刺激は聴覚刺激よりずっと強烈ですから、たたかれたとたんに幼児の意識はそちらに気をとられてしまいます。
 結果、たたかれて痛かった怖かったことだけが記憶に残り、その時に聞かされた話などふっとんでしまいます。
 自分の行動と処罰を結びつけて理解できるほどに成長していない子供にとっては、親の暴力は降ってわいた災厄です。「こんどはいつたたかれるだろう」ということだけを気にして、落ち着きなく、びくびくと親の顔色をうかがうようになっていくでしょう。
 エピソードとして整理された記憶が残らなくても、行動の特性はしっかり身につくものです。

 では、「包丁をさわろうとしたからたたかれた」という因果関係まで理解できる子供なら体罰は有効でしょうか。
 この場合も「包丁をさわると自分がけがをするかもしれないと心配して親がたたいた」なんてところまで理解がすすむことはまず困難です。それがわかるくらいに成長しているなら、話して聞かせるだけで十分のはずです。
 罰を受けた理由が自分のためだと理解できない子供は「次は親の見ていないところで包丁をさわろう」と考えるだけです。

 暴力によるしつけは、その場で子供の行動をコントロールしたように見えて、実は瞬間的に子供をおびえさせているだけなのです。痛みや恐れ、腹立ちの種をまくばかりで、大事なメッセージは何も含まれていません。親を怖がったり憎んだりうっとうしがったりする種をまいているだけなのです。

暴力論17 暴力をひきだす環境要因

乳幼児を養育する環境には、ふだん暴力的に見えない人でも加害者になりかねないリスクが存在する。
これが私の主張です。
そのリスクを次に並べてみます。

1。圧倒的な力の差
 人間誰しも強力な反撃の予想される相手には手をだしにくいものです。相手が乳幼児なら加害は簡単です。殴り返される心配はありませんし、言葉で抗議される心配もありません。

2。膠着した関係性
 いくら叩かれてもよちよち歩きの子供はその場から逃げられません。また、大人の庇護なしには生きていけないので、親の傍から離れるという発想がありません。一方、親の側には社会的心理的な縛りがあります。子育ての責任を負わされている、親として周囲の評価にさらされているなど、子供に縛りつけられて逃げ場がないと思いこみやすい状況があります。

3。介在者の不在
 親子だけで暮らす家のなかには、加害者の行為を注意したり、被害者を守ろうとしたり、関係を緩和しようと働く第三者がいません。乳幼児は他者に被害事実を訴えることも困難ですから、暴力行為が外の社会に知られないままになりがちです。
 もちろん、父親が子供を叩いているところに母親がいても、黙ってみているだけでは抑止力にはなりません。
 無関心な第三者は暴力を容認・荷担しているのと変わりありません。

他の場面では暴力をふるわないような人でも、自分が被害にあった体験を未消化であったり、欲求不満をためこんでいることはあるものです。そのような人が上記三つのリスク要件のそろった場面におかれた時が危険です。

「反撃のおそれがないほどの力の差」
「加害者も被害者も逃れられない膠着した関係」
「外からの介入・内部チェックの不在」

さて、これらの要件がそろうのは乳幼児養育の場だけでしょうか?

家庭内であれば「夫から妻へ」「介護者から高齢者へ」「思春期以降の子供から母親へ」などのパターンもあるでしょう。
社会的には託児施設、学校、福祉施設、医療機関、職場、宗教施設、交通機関、デートや性交渉の場面でもこのような状況は発生します。現にこのような場で暴力加害・被害が発生していることはみなさんもご存じだと思います。

正義と法的正当性の名のもとに暴力が行使される場でも、部分的に上記三つの要件がそろえば、釈明不可能な暴力がまぎれこみます。
刑務所、捕虜収容所などがいい例でしょう。

暴力論16 加害親は特別な人間か?

「我が子を虐待するなんて一部のロクデナシ親がすること」
という感想もよく聞かれます。
暴力をふるうのはごく一部のどうしようもない人たちで、自分とは全然関係がない。そう考えてしまえば一方的に加害者を非難できます。
しかし、本当にそうでしょうか。

どこの親だって子供を虐待してしまうかもしれない。
私はそう思います。自分も危ない場面が何度もありましたし、次にふたつほどの例証をあげておきます。

ひとつ目は、最近報道もされていましたが、里親からの虐待の事件です。
里親さんというのは、事情があって実の親に育ててもらえない子供の養育を引き受け、自分の家で我が子同様に育ててくださっている人たちです。すすんで子育てをしたいと申し出て定められた研修を受け、公的な機関の審査を通った人たちなのですが、その里親さんですら預かった子供を虐待してしまうことがあるのです。
裁判になった事件を傍聴した他の里親さんたちが、
「気持ちは良くわかる。自分たちだってまかりまちがえば同じことをしてしまったかもしれない」という趣旨の感想を述べておられました。

もうひとつは、私がとある法医学の先生からうかがった話です。
「子供に暴力をふるって死亡させたと剖検で判断した加害親について、警察が捜査しても今までに何ら虐待や養育放棄の事実がなく、ごく普通に子育てしてきたごく普通の家族だったという例がある。これもやはり虐待と言うべきなのか?」
死んだ子供にしてみれば明らかに虐待なのですが、手をくだした親にしてみれば、よもや子供を死なせてしまうとは思っていなかったのでしょう。

自分に正直で率直な親御さんほど、
「虐待は他人事ではない。同じ立場だったら自分でも危ない」
と話されます。
「親が子供をたたくなんて信じられない」
と言い切れる人は、果たして、自分の心を正直に検証しているでしょうか。

暴力論15 乳幼児の虐待死

厚生労働省が発表した統計の数字を見てみましょう。
http://www.mhlw.go.jp/bunya/kodomo/dv37/dl/6-08.pdf

平成20年4月から平成21年3月までの1年間に虐待により死 亡した子どもの数は、心中以外が67人、心中(親が死亡しなかった場合を含む)が61人でした。
心中以外のうち、0歳が 39人(59.1%)、1歳と2歳が4人(6.1%)、3歳が3人(4.5%)であり、0歳が半数以上を占めていました。また、3歳以下の合計が50人(75.8%)でした。
0歳児の詳細をみると、26人(0歳児の 66.7%)が生後1か月に満たず、さらにそのなかで日齢0日が16人(0か月児の 61.5%)でした。

日齢0日で殺されたのは、はじめから親に育てる気がなかった赤ん坊です。
婚外子で家族や周囲に知られたくない、望まない妊娠でどうしたらいいかわからなかった、中絶や育児の費用がない、といったのが理由です。
産みの親に子供の命を守る気持ちがなければ、人間は一日たりとも生き延びられないということです。
(逆に言うと、たった今この世に生きている人間は全員、誰かが育てたから生き延びた、ということです。皇族も有名人も殺人者も資産家も貧乏人も関係ありません)

1日以上生き延びた子供は、その期間は親なり誰か大人に育てられたということです。大人の側に育てる意志があったにもかかわらず、どこかの時点で死亡させてしまっているということです。

3歳未満の子供でみると、身体的虐待による死亡が28人(59.6%)です。直接死因で一番多いのは溺水の8人、続いて頭部外傷と頚部絞厄以外による窒息がそれぞれ7人ずつです。頭部打撲による脳障害の1名を加えると、頭部への暴力による死亡は8人になります。
溺水と窒息には明確な殺意があるのでしょうが、頭を殴る、つきとばす、落とす、といった行為にはその時かぎりの衝動性がうかがわれます。
わかった範囲での動機でいうと、「泣きやまないのでいらいらした」「パートナーへの愛情を独占されたなど子供に対する嫉妬心」「子供がなつかない」などがあげられています。

なお、虐待者で一番多いのは実母で、その次が実父です。実父母あわせると3歳未満児のうち39人(82.9%)にのぼります。
実の親がそれまで育てていたにもかかわらず、暴力的に命を奪われた乳幼児がこれだけいたということです。

これは死亡した子供だけの統計ですが、この背景には頭部外傷を負いながら死ぬまでにはいたらなかった子供がもっとたくさんいるはずです。
乳幼児期の頭部外傷は身体障害、知的障害、高次脳機能障害などの原因となります。
親が自分たちの衝動的暴力によって、我が子を殺す、障害を負わせる。育てるつもりの子供を殺してしまうとか、育児を負担に感じながら、結果的に子供をもっと育てにくくしているという現象がみられます。

暴力論14 身体的虐待と体罰

子供に対する身体的暴力を否定するような話をするとき、必ず反論として出てくるのが「しつけの範囲内の体罰は一定の効果がある、あるいはやむを得ない面がある」という主張です。
私の立場は
「たとえお尻をたたくとか手の甲をつねる、頬を平手打ちする程度の暴力であっても有害無益、体罰は親にとっても子供にとっても弊害ばかり大きい最低の手段である」
です。
さらにつけ加えて言うと、
「体罰を肯定する親はもっと有効で害の少ないしつけの手段があることを知らないか、そういった手段を選ぶことをサボタージュしている」
「親は自分の欲求不満を子供にやつあたりしながら、それをしつけであるとごまかしている」
の二点も主張したいです。

ここではまず、大義名分の影にひそむ加害者の自己中心性から話を始めたいとおもいます。

今まで「被害者が加害者に転じる、やつあたり暴力の連鎖」について書いてきましたが、そのどんずまり、弱者から最弱者への加害の典型が「乳幼児に対する暴力」であると私は考えています。

しつけだの懲罰だのといって子供に責任を押しつけることができない状況でも暴力加害は始まっているのです。

暴力論13 子育てしない大人と子供の関係

この文章を読んでいる方のなかには、自分は子供を育てたことはないし、将来もその予定はない。したがって、児童虐待と自分とは直接関係がない、という意見もあると思います。
人権とか人道とか博愛とかいう言葉をなるべく使わずに、「親以外の大人が子供の養育を考えなければならない理由」について考えてみたいと思います。

人間は生涯の始めの十数年間を他者の庇護なしには生きていけない弱者として生きます。それに続く40年~50年くらいの期間は一応、自立して生きることができるとされています。さらにその後はまた他者の援助なしには生きられない状態となり、必要な援助は死ぬまで増加し続けます。
年をとった私たちの扶養と介護を担うのは現在の子供たちなわけですが、自分の子供がいない人たちも、いずれ金を払って、あるいは税金を使って、サービスを買うことになります。
では資金さえ用意しておけばいいかというとそうではないですね。いくら買いたいものがあってお金をつんでも、商品そのものが品薄であれば手に入らなくなる。十数年前の米不作の年に思い知らされた事実です。

日本で生まれる子供の数は確実に減少しています。少ない労働人口で増え続ける老人を養うのは大変ですし、介護に携わる人材を確保するのも大変です。この分野は機械化や合理化がもっとも難しく、知識や経験の他に労働者の持ち前の性格や気質がサービスの質に大きく影響する分野だからです。
国内生産で労働者が間に合わなければ輸入に頼るという発想もすでにあるようですが、日本人のニーズに合った供給がうまく成立するとは限りません。

一昔前までは、日本でも余るほど子供をつくって、出来の悪いのは切り捨てる、ということが公然と行われていました。兄弟が7人も8人もいたら、成人する前にひとり死に、ひとりは行方がわからなくなり、ひとりは他の兄弟に一生食べさせてもらうというのもありだったのです。
子供の数が減っている現在、そのような無駄を見込んだ子育てをする余裕はありません。生まれてきた子供ひとりひとりがそれぞれの資質を生かして社会貢献できる道を捜さなければもったいないのです。

それに、子供達がどのような考え方をもった大人に育つかも気になるところです。「めんどうな介護をして報酬をもらうより、年寄りをさっさと殺して遺産をせしめたほうが効率的だ」なんて若者が増えたら大変です。
働けなくなった世代の面倒をちゃんとみてくれる次世代を育てることは子供のいない人たちこそが考えなければならない課題なのです。

暴力論12 これからの展開について

やや抽象的な話が続きましたが、これからはもう少し具体的な数字や公開された資料などもひきながら話を深めていきたいと思っています。

当面のテーマは「児童虐待」です。
私がこの分野について他の人より多少はものを知っている、というのが大きな理由です。
もうひとつの理由は、現代の日本人にとってもっとも身近な暴力問題であるということです。
この文章を読んでくださるみなさんは全員、子供の頃には大人に育てられていたはずです。
何割かの人たちは大人として子供を育てた経験をお持ちであったり、このさき親になるつもりがあるのではないかと思われます。
また、ほぼ全員がこのさき今の子供たちに介護を受ける立場になると予想されます。

ひとごとではない暴力ということで、意見や質問も出していただきやすいかと考えました。

もちろん、児童虐待のなかには養育不適切とか言葉の暴力、性的虐待など、いろいろなパターンが含まれます。
ここでは児童虐待問題そのものをテーマとするのではなく、「手段としての暴力」を考える材料として割り切って扱いますので、その点はご了承ください。

暴力論11 加害側の屁理屈

八つ当たりで暴力をふるう人は、それが八つ当たりであることを自ら認めたりはしません。
たいていは被害者側に何らかの落ち度があるように言い、加害者自身も本気でそう思っていることさえあります。
やれ態度が悪いの、口の聞き方がどうの、こっち見て笑っただの、存在自体がうざいだの、言いたい放題の人もあるし、多少手のこんだもっともらしい詭弁を弄する人もいます。
実のところは、もう一段上の加害者Aには手も足も出ないなんてことを被害者Cの前で認めたくないだけなのです。
Bが述べ立てる加害の理由を真に受けて
「被害者Cにもまずいところがあった、隙があった」
などと考える第三者がいますが、これは違います。
Bのような人は自分が暴力をふるうきっかけを探し求めているので、Cが抵抗できない立場だと嗅ぎつければ理由は何とでもこじつけます。
この時の屁理屈がどれほど理不尽かは、いちゃもんをつけられたことのある人にしかわからないでしょうが、一度経験すればもう辟易するものです。
ここで問題なのは、被害にあいたくない人たちが単純に衝突を回避して自己防衛するだけでは、加害者はさらに立場が弱く、孤立した人を選びにいってしまうということです。
最後に目をつけられた被害者は自力で逃れようがありません。
本当の意味で被害を回避するためには、横つながりの連携が必要になってくるのでしょう。

ところで、最近
「動機がはっきりしない加害が増えた」
とか
「何の罪も無い人が無差別に加害されるようになった」
とか言われることが増えているようです。
これらは加害の本質が変化したわけではなく、単に加害者が八つ当たりを正当化する努力を昔ほどしなくなっただけだと私は考えています。

暴力論10 やつあたりの連鎖と拡散

暴力をふるった人、ふるわれた人のあいだで力の差がはっきりしている時には、報復のかわりにより弱い人への八つ当たりが選択されることがあります。
加害者の縁故者で弱い人間が標的になることもままありますが、全然関係なくても「自分が報復されない」ことだけが選択の基準になることもよくあります。

たとえば上級生Aが下級生Bを殴り、Aには対抗できないと考えたBが腹いせに新入生Cを殴ったとします。
CがBに対抗できないと考えれば、帰宅して妹を殴ることも考えられます。
暴力の連鎖は水が流れ落ちるように弱いほう低いほうへと向かいます。

こういった状況でしばしば生じるのが、「被害者が被害を覚えているほどには加害者は加害について覚えていない」という現象です。

上記のBの場合で考えてみましょう。
Aに殴られっぱなしになったことはBにとって忘れがたい被害であり屈辱です。(暴力的な性格の人ほど力関係で抑圧されることを過剰に嫌がります。)Cに八つ当たりすることは一時的なストレス発散にはなりますが、その効果は長続きしません。もともとの原因であるAとの力関係は全然変化していないからです。時間がたてばBはまたAに対する鬱憤をため(実際に殴られたのは一回きりでもそのまま関係性が固定してしまっているので)いずれまたCやCと似たような立場の人を殴るでしょう。変わりばえのしない、持続効果のない手段をまた選ぶのは、他にストレス発散の手段を知らないことと、一過性でも即効果のある手段に惹かれるからです。
暴力と依存性の薬物は似通った性質をいくつももっていますが、これがその一例です。

Bは何人もの下級生に暴力を振るい、被害者(=潜在的な次世代の加害者)を増やしながら、自身は救われることがない。変化が無いことが加害への関心を薄め、忘却を加速します。

暴力論9 ケンカをふっかける人、受けて立つ人

ケンカが成立するためには始めにふっかける人(以下Aとします)と、それを受けて立つ人(以下Bとします)が必要です。

Aがなぜ先制攻撃をしかけるのか。
Bから敵対的な言葉や態度や行動をぶつけられた、というのが一番ありそうです。
ただし、この時、Aが「Bから圧力をかけられた、被害をこうむった」と感じるのは、もっぱらAの主観によります。

Bは本当にAを怒らせて暴力をひきだそうとしたのかもしれません。これは「挑発」です。
BはAに反対意見を述べたり、非難したり、困らせるような行動をとりつつ、まさかAが暴力をふるってくるとまでは予想していなかった、ということもあり得ます。
また、BにはまったくAを怒らせる意図はなく、たまたまAがBの言動を被害的に曲解した、ということもあるでしょう。
ひょっとしたら、BはAとはまったく無関係であったのに、Aが他の理由でいだいた怒りや不満を八つ当たりされただけかもしれません。

要は、Aが何らかのフラストレーションを溜め込みながら、それをうまく解決する手段を思いつかず、手近にいるBにぶつけたというのが共通点です。
遊び仲間が玩具を貸してくれないからといって相手をつきとばすことは2歳児でもできる行動です。
しかしながら、2歳児と同程度にしか問題解決の手段を持たない、あるいは2歳児が思いつく程度の解決手段が最良であると思い込んでいる大人はけっこう存在します。

ケンカをふっかけられたBの反応はもっと単純です。
攻撃を仕掛けられた時点で、予想していたと否とにかかわらず、Aに対する恐怖や怒りを感じるのが自然です。
BはAを自分に敵対する人間だと簡単に認識するでしょう。
もともと友好的な関係だと思っていたり、ほとんど無関係だとおもっていた間柄であっても、一発殴られれば「こいつ、やりやがって」と反発するのが自然な成り行きです。
ここでBが殴り返せば敵対関係は見事に固定します。
Aにしてみれば、Bが反撃してきたことで「やっぱりこいつは敵だった」という確信を持てるわけです。

つまり、AとBは敵対関係にあったことの結果として、けんかを始めたのではなく、けんかを始めることを合意した時点で敵対関係になったのです。

Aのように欲求不満をためていて、被害感情を持ちやすく、衝動的短絡的に行動を起こす人間はそう多くないかもしれません。
しかし、私たちはBの立場になれば、よほど冷静に事態に対処する気持ちがなければ容易に反撃をしてしまい、ケンカの成立に加担してしまうのではないでしょうか。

暴力の被害者は、とても簡単に加害者に転じます。
実は、もともとの加害者も被害感情に突き動かされて手をだすことが多いものです。
被害者意識を持ったものが加害者となり、被害を受けた者が加害を仕返す。
この関係がループしてしまえば益のない暴力の応酬が繰り返されるだけです。

暴力は際限なく敵を増やし、増殖します。

暴力論8 なぜ損得論を語るのか

「暴力はいけない」ということを語るのに、人権、人道、法律、福祉などの立場から「べき論」を援用する人はたくさんおられると思いますし、私なんかがするよりずっと立派な論議はいくらでもあると思います。
ここであえて「損得勘定」の話をするのは、「建前論なんて現実には役に立たない。本音は別のところにある」という考えがはびこっているからです。
手段としての暴力を行使する人たちは、
「相手の立場ばかり尊重していたのではこちらが被害をこうむってしまう」
「実際に有効な手段であるのに理屈で抑えられるのは心外だ」
「みんな口ではきれいごとを言っていても、いざ自分の立場になればやってしまうはずだ」
「そっちは暴力を否定するなら、こっちは好き勝手させてもらうけど、文句はないな」
といった屁理屈を展開しがちですし、
暴力を否定する人たちのなかにもいろいろあって、
「ともかくだめなんだ」
としか理解していない人は
「相手が好き勝手やっててもこっちは我慢しないといけないのか」
「相手が先にルール違反をするならこっちだって受けて立っていいのではないか」
「どのみち暴力に訴えるような人は暴力で抑えるほかにつける薬はない」
といった考えに走りがちでしょうし、よほど理屈をふまえた人でも
「そうはいっても例外的に必要になる場面はあるだろうし、状況次第では使いようだろう」
と考える人はたくさんいると思います。
私がここで文章を書いているのは、暴力の有効性を信じるのは考えが足りないですよ、あなた早まったことをするとあとで大損しますよ、ということをどちらの立場の人にも知らせたいからです。
そうすれば、加害をしようとする人にも
「被害者がどうこういう以前に自分が不利益をこうむるのはごめんだ」
と考えてもらえるだろうし、被害にあいながら手を控えている人にも
「相手はわざわざ墓穴を掘っているのだ。同じレベルで応戦するのはこっちにとっても損害だ」
と考えてもらえるからです。
そのために、なるべく具体的で身近なレベルの話を積み上げていけたらいいと思っています。

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