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ラス・キア 子守唄墓守虫

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 最終回

 キアがとっさにベルトをつかんで支えてくれたが、ストラップはバッグごと川面に落ちて沈んでしまった。
「くそっ」
 キアはやおら両腕をTシャツの襟ぐりからひき抜き、ぶらさがった片袖を僕のベルトに巻きつけてしばりあげた。結び目をつかんで自分の体重を思い切り反対側にかけ、僕の体をひっぱった。
 彼ひとりの力で僕を持ち上げることはできなかったが、荷重が減ったことでなんとか両手をたぐりよせ、鉄管の上に腹をのせることができた。
 ジーンズの前ポケットあたりで何かがひっかかった。片足をまわして鉄管に抱きついたひょうしに、紙包みがほどけて中身がこぼれ落ちた。
 萌黄色の封筒が吹き下ろす風にあおられてばらばらと飛び散り、川面に落ちていった。茶色い落ち葉にまじって若葉のように色あざやかな点々が流されていくのを、僕らは茫然と見送った。
「おい。動けるか?」
 キアに声をかけられて現実に引き戻された。
「そのまんま、ちょっとずつ下がれ。腿の力、抜くなよ」
 僕らは細い葉の先に向かいあってとまったテントウムシのような姿勢のまま、じりじりともと来た岸辺に向けて移動した。
 ようやく足が堤防と鉄管の連結部に届いた。ほっとして気が抜けた。途端に、バランスを崩した。
 シャツの命綱でつながったまま、僕にひきずられてキアも転落した。
 頭まで冷たい水に浸かって目の前が真っ暗になった。息をしようとして水を飲み、むせかえってさらに水を吸った。そのまま流されそうになった僕の腕を、キアがつかんで引きとめた。
「暴れんな!だぼ!」
 やみくもにじたばたするのをやめたことで、かえって身体が立ち直り、なんとか川底に足をつくことができた。
 ようやく頭を水面からもちあげて咳こみ、泥水と一緒に昼飯を吐き戻した。水は腰の下あたりまでしかなかったが、それでも流れに足をすくわれそうになるのを堤防の石のすきまに手をひっかけてなんとか持ちこたえた。
 キアが下流の一角を指差した。堤防に小さな階段が刻まれていた。
 石積みにへばりつくようにしてそろそろと移動するうちに水かさは少しずつ減っていった。
 ようやく乾いた地面に這い上がってへたりこんだ。何時間も水と格闘した気分だったが、太陽はまだ南の空の高い位置にあった。
 びしょぬれの身体が風にさらされて震えあがった。隣で膝をついたキアのほうが僕よりひどく震えていた。
 ランニングシャツからのぞいた肌は青ざめ、左肩の傷痕だけが赤っぽくうきあがっていた。
 早く乾いた服に着替えて身体を暖めなければ。
 僕は紫色になった爪でなんとか命綱の結び目をほどき、濡れそぼったTシャツの残骸を脱がせようと、膝をついてキアのそばににじり寄った。
「……ごめん……僕が……」
「簡単に謝るな!」
 いきなり怒鳴りつけられて、びくっと手をひっこめかけた。キアはその手をつかんで引き寄せ、痛いほど握りしめた。
「謝ってすむかい……あほう……」
「ごめ……あ……え……」
 キアは声をつまらせた僕の手を抱え込み、血が通っていることを確かめるように眉間に押しあてた。揺れる前髪からしずくが流れ、顎までつたってぽたぽたとこぼれ落ちた。
「……お前まで……たら……」
 嗚咽がもれて言葉が聞き取れなくなった。
 僕は身動きとれないまま、自由のきくほうの手でキアの背中をこすり続けてやることしかできなかった。
「手紙……また、書くから」
 返事はなかった。 
「帰ってくるまで。待ってるから」
 ようやく、かすかにうなずいてくれた。
 百メートルほど川下の木立をぬけて、若い男の人がぶらぶらと歩いて来た。望遠レンズをつけた大きなカメラをかまえて、ぐるりとあたりを見まわした。たまたまこっちを向いたとき、ファインダー越しに僕と視線があった。
 男の人はカメラをおろして、両目をレンズのように丸く見開いた。それからあわてて、腕を振りまわしながら走ってきた。
「おい、どないしたんや。きみら、大丈夫か?」


 キアが西中学校に戻ってきたのは、水源池で会った日から数えて一年十ヶ月後だった。


エピローグ

2008/12/13 Sat.

 僕は約束の時間よりかなり早めに青池に到着した。昼下がりの空は気持ちよく晴れて、明るい青色の背景に絵筆で掃いたような薄い雲が浮かんでいた。
 駐輪場の管理人室に声をかけると、すぐにフェンスの鍵を貸してもらえた。事前の相談ですんなり話が通ったのは北野清子さんのおかげだ。
 祠の前までぶらぶらと歩き、すぐには鍵を開けずに客を待った。通路のアスファルトはあちこちひび割れて、ノゲシやオオバコのロゼットがはびこっていた。
 しばらくして、暗赤色のエスティマが坂の下の駐車場に停車した。キアが真っ先に助手席から降りてリアにまわり、荷物室から車いすをひっぱり出した。その間に後部座席のひとつがリモートコントロールでしずしずと回転し、小柄な老人を地面すれすれまでそろりと降ろした。
 反対側のドアから出てきたのは痩せぎすの背の高い老人だった。ステッキをつきながらも元気な足取りで、他の乗客を待たずにひとり階段を上ってきた。
「はじめまして。我孫子さんですね」
 僕が挨拶すると、老人もソフト帽にちょいと手をあてて、きどった会釈をかえした。ツイードのジャケットは着古されて襟がすり切れていたが、元はきちんとしたオーダーメイド品だろう。
「烏丸くんですか。なるほど、なるほど。ここがそうなんですなあ」
 我孫子さんは青池をながめ、池からなだらかに続く南側の坂道をながめ、北側に遠くかすむ山々をながめて、感心したように何度もうなずいた。僕はフェンスの出入り口をくぐり、祠の前戸を開けて菓子折りをお供えした。とりあえず、ふたり並んで柏手を打った。
 座席を収納したエスティマから最後に冬子さんが降り立った。ドアのロックを確かめ、ショートブーツの靴音も軽やかに階段を駆け上ってきた。長い髪を明るい栗色に染めたからだろうか。夏頃よりずいぶん顔色もよく、溌剌とした印象だ。
 キアは清子さんの車いすを押して、スロープをゆっくりとあがってくるところだった。
 我孫子さんは両手を広げて冬子さんににこにこと笑いかけた。
「あの爺さんのホラ話に多少でも真実がまじっておったとはねえ。お社が小島にないことをのぞけば、聞かされたとおりですよ、ここは」
「楠さんのことですね」
「病院では別の名前を使っとられましたよ。二、三年前にほんの数週間ご一緒しただけでしたが。私は退院、あっちは病棟を移ってしまったからね」
「それでよく、僕らが捜していた人だとわかりましたね」
「なにしろ、めちゃめちゃ話がおもしろいんで有名人でしたな。自分は警察の囮捜査に協力していた秘密潜入員だったとか、某流行作家のゴーストライターだとか、大まじめでしゃべり続けるんですから」
 楠さんの人を食ったような澄まし顔を思い浮かべて、ちょっとだけせつなくなった。
「そんな話のなかに、『わしは明智の竜神に仕える神主やった』と言うのもありまして、北野さんがその土地の人と聞いてお話ししたら、たいそう興味をもっていただいて。しかしあなた、その神主の仕事というのがタツノオトシゴを二匹世話することだったとか」
 冬子さんが笑った。
「それを言うなら、竜の申し子と違いますのん」
「さて、こまかいことは私も覚えてませんな」
「まだ、その病院におられるかもしれないんですね。僕、行ってみます」
 僕が無分別に明るく見えたのか、我孫子さんは首をかしげて思案げに顎をしごいた。
「結核病院の慢性期病棟ですからね。確かにまだ入院されてるかも知らんが……もしかしたら……」
「会いに行きます」
 僕は老人に向かってきっぱりと言った。
「楠さんの物語を最後まで確かめに行くのが僕らの役目だと思うんです」
 しばらくは誰も何も言わなかった。やわらかな風が水面をわたって、さわさわと細かな波をたてた。
 キアと清子さんがようやく追いついた。
 染みだらけの作業服を着た若者と、紬の袷の襟を凛とたてた老婦人。普通ならありそうもないとりあわせなのに、不思議としっくり絵になった。
 僕は我孫子さんから二人に向きなおって親指をたてた。
 キアはわかったというように、ちょっとだけ笑った。
 水源池の事故の後も、一緒に西中に通うようになってからも、紆余曲折はあった。それでもいろんな人に出会って助けられて、今は二人、ここにこうして立っていられる。もとをたぐれば、楠さんのおかげで動き始めた運命だ。どんな状況が待っていようと、僕らなりの返礼はきちんとしておきたかった。
 そうしてもしも僕らの訪問が間に合って、また三人で話をすることができたなら。
 その時には聞かせてもらいたい。ため池のほとりで出会った少年たちのことを。

                      (了)

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第62回

 そこにいた少年は僕より背が高かった。こざっぱりした長袖Tシャツとジーンズ。すらりと伸びた手足。やや痩身だが肩幅はかっちりと広く、引き締まった腰までしなやかな筋肉の輪郭が見てとれた。切りそろえられた黒い前髪がさらさらと風に流れた。
「……ラス」
 ぽかんと口を開けて突っ立っていた僕は、ふいに呼ばれて跳びあがった。
 聞いたことのない、かすれた低い声だった。
 僕はもう一度、まじまじと相手をみつめた。
「……キア……」
 キアは軽く肩をすくめて口の端をもちあげた。以前ならやんちゃできかん気に見えたしぐさに、今は制御された力強さを感じた。
「背が伸びたね」
 間の抜けた挨拶に、
「アホほど食うとうからな。お前も……」
 そう応えかけて、キアはまぶしそうに目を細めた。
 今度は僕のほうがしげしげと観察されて、首筋がむずがゆくなった。
「最初に会うた時はひよひよした頼りないやつやて思うたけど」
「そうだったの?」
「見違えたで。骨が太うなった」
 キアは自分の言葉に照れたように後ろを向いて、ついてこいと手を振った。
「もう、俺がおらんでもいじめられたりせんやろ」
 僕はキアの後に従ってまた林の中へ、今度は登山道と湖のあいだをぬって南へ引き返した。道らしい道もないのに、キアの歩みは自分の家の庭でも案内するみたいに迷いがなかった。
 コナラの小枝の先の新芽を指さされた。よく見ると小さなクモの擬態だった。
 立ち枯れたアカマツの樹皮の裏では、カメノコテントウが集団越冬していた。
 一本だけはやばやと花をつけたマンサクの木。
 伐採跡の陽だまりにはオオイヌノフグリの花畑。
 次から次と案内されるたびに、息をつめて夢中で観察を続ける僕の傍らで、キアは努めてなにげない態度をとろうとしていた。それでも顔がにやけるのは抑えようがなく、こっちまで笑ってしまいそうになった。
 このあたりはすっかり、こいつのフィールドなんだ。
「よくこれだけ調べあげたな」
「詳しいおっさんがおったからな」
「施設の人?今度会わせてもらえる?」
 キアはちょっと困ったように鼻の頭をかいた。
 ひょっとしたら、僕と会っていることを大人に知らせていないのか。それ以上追及するのはやめておいた。
 背の高いホオノキの根元にデイバッグを置いて昼休憩にした。
 僕が弁当をひろげると、キアはなつかしそうに鼻をひくつかせた。
「お前のおかん、煮物がうまかったな」
「食べる?」
「ええよ。俺も作ってもうたから」
 ウエストバッグから取り出した弁当箱は小ぶりだったが、ぎゅうぎゅうに白飯とおかずが詰まっていた。
 施設の厨房に頼んで、アルバイトに出かける高校生たちの分と一緒に包んでもらったのだそうだ。
 しばらくはふたり黙々と食事をした。じんわりと汗の浮いた身体に、大きな落ち葉の香りが心地よかった。
 後片付けをすませ、僕はのんびりとホオノキの幹にもたれてあくびをした。
 キアが遠慮がちに話しかけてきた。
「明智はどないや」
「ここよりも気温は高くなってるよ。ムシはまだあんまり出てこないけど、もう少ししたらツクシが摘めると思う」
 僕の返事は期待にそわなかったようだ。
「……県住は……俺の家はどないなっとう?」
「お父さん……会いに来てないの?」
 キアは黙ってうつむき、スニーカーのつま先で落ち葉をほじくった。
「十月の終わりに行ってみたけど……もう引っ越したあとだったよ。お隣さんも管理人さんも、転居先は知らなかった」
 手紙には書きそびれた事実。僕も下を向いてふたりの足元に視線を泳がせた。
「児相の人にも連絡してこないの?」
 キアは落胆を隠すように声の調子を上げた。
「まあ、どうせまた舞い戻ってくるやろ。明智で生まれ育って、他へ出たこともなかってんからな。俺が先に帰って待っとればええことやし……」
 僕はぎょっとして立ち上がった。
「おい……本気かよ。帰ってきてまた父親と暮らすつもりか?」
 キアは表情の読めない顔で僕を見つめ返した。僕は頬を赤くして言いつのった。
「だって、今はもう食べるものがないとか、着るものが合わないとか、そんなこと気にしなくていいんだろ?夜中に追い出されるとか殴られるとかも……」
 僕の声は大音量のサイレンにかき消された。短い休止をおいて二回目。さらに三回目。登山道の看板で読んだ。ダムの放流を知らせる警報。
 キアはしんと醒めた目を僕に向けたまま立ちつくしていた。
「帰ってきていらん、てか」
「……え……?」
 口元だけに貼りつけたような笑みをうかべ、キアはバッグから角ばった紙包みをひっぱりだして僕の胸に押しつけた。
「世話んなったな。まあ、達者で暮らせや」
 紙包みの角が破れて萌葱色の封筒がのぞいた。冷や水を浴びせられたように青ざめた僕をおいて、キアはひとりさっさと林の斜面を下り始めた。
「ちょっと待てよ!おい!」
 キアは待たなかった。信じられないような身のこなしで密生した木々のすきまを駆け抜けていった。
 僕はそのあとを追い、死に物狂いで走った。二人の距離は広がる一方だ。近道を選んだつもりが根株に足をとられて転倒した。身体をまるめたまま、あちこちにぶつかりながら斜面を転がり落ちた。川のほとりまで来てやっと停まった時には身体中がきしんだが、時間を短縮することはできた。
 起きあがってあたりを見まわした。いつの間にかダムよりも下流に来ていた。
 キアは川にそってさらに南へと向かっていた。僕は口元の血をぬぐい、痛む足を無理にも前へ運んで走りだした。背後からまたサイレンが三回、尾をひいて鳴りひびいた。
「待てったら!」
 キアは意地でも振り向かなかった。橋もないのに、いきなり護岸堤防の縁から飛び降りたと思ったら、対岸まで渡された丸太のような水道管の上を駆け抜けていった。
 僕も遅れてその後に続き、鉄管の上に降り立とうとした。
 はるか前方で、やっと振り向いたキアの顔がひきつった。同時に僕の足首ががくんとねじれた。スニーカーが金属の曲面をすべり、足が宙に浮いた。
「ラス!」
 とっさに両手をのばして水道管にしがみついた。つかむ手がかりなどどこにもない。トレーナーの袖が管の表面をずるずるとこすってようやく止まった。僕は両腕を鉄管にはりつけたまま、両足をぶらぶら垂らす姿勢になってしまった。
 キアはこちらへ走って戻りながら声をはりあげた。
「誰か!来てくれ!助けが……」
「ちょっ……人なんか呼んだら黙って会ってたのがばれちゃう……」
「黙っとれ、あほう!」
「たいした高さじゃないよ。このまま手を離して落ちても……」
 僕はそう言いながら下を向いて初めて、川の様子がさっきまでと違うのに気がついた。
 土色に濁った水面は一見、床のように平らだった。違和感の正体は河原や中州がすっかり見えなくなったことだ。水はひたひたと堤防を洗い、石積みのすきまから生えた雑草が見る間に水没していった。上流から流れてきた落ち葉が僕の足の下をすいと通り過ぎて、あっという間に視界から消えた。
 流れの速さと水量の多さに改めて思いいたり、手のひらがじっとりと汗ばんできた。
 キアの呼び声に応える者はいなかった。ほんの数十秒の間にも水面はじわじわとせり上がり、スニーカーの先を濡らしそうになった。
「動くなよ。ええか。じっとしとれよ」
 キアはもう一度水道管に乗り、振動を与えないようにそろそろと歩いて僕のところまで来た。自分の胴回りより太い管にまたがってウエストバッグのストラップをはずし、這いつくばって僕のベルトに手を伸ばした。金具をひっかけようとした瞬間に僕の手がずるっとすべった。

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第61回

「ううん。烏丸くんが好きなことなら、私も知りたいて思うててんよ。高井田くんたちがいてへんかったら……」
「プールサイドで文鳥をみつけた時も、いやな思いをさせちゃったし」
「あれは私が悪かったんよ。わざわざ来てもうたのに悲鳴あげて逃げ出したりして」
 なぜだろう。大宮と話をしていると、何を言えばいいのかわからなくなってしまう。僕はしかたなくムシの話題をつないだ。
「ヒラタシデムシはわりとどこでもみかけるけど、ここでモンシデムシをみつけたのはちょっと驚きだったんだ。雄雌一緒に幼虫の世話をする珍しい甲虫で、親虫は鳴き声で幼虫を餌のありかに導く習性も持ってる」
 大宮は首をかしげておさげ髪に指をからめた。
「お父さんも子守唄を歌うムシなんやね」
 ふいをつかれて、胸に苦いものがこみあげた。
 また黙りこくった僕の横で、大宮は話を続けようと懸命に言葉を探しているようだった。
「烏丸くん、最近元気ないよ」
「別に何も変わったことはないけど」
「十月にいろいろあって大変やったはずやのに、そのあと冬休み頃まではすごく忙しそうに動きまわってたでしょう。あの頃より今のほうがしんどそう」
「……やることがなくなっちゃった、てのはあるかな」
「葺合くんのこと?なにか困ってる?」 
 きみがどうしてそんなことを気にかけるんだ。そう声に出して訊かないくらいの分別はあった。
 大宮は今までも、なにくれとなく僕らを助けてくれていた。
 みっともない姿も何度も見られている。今さら取り繕ってもしかたない。
「返事をくれないんだ。ずっと手紙を書いてるのに」
 正直に言ってしまってから、自分の声が腹にこたえた。
 二宮さんには、返事なんかいらないと啖呵をきった。入院中や施設入所の前後には字を書く余裕などなかっただろう。新しい環境に慣れるまでは昔の友達とは距離をおいたほうがいい。そんなふうに大人が考えることもわかっていた。
 それでも、もう四ヶ月だ。
 手紙が届いていないのなら仕方ないが、それならば二宮さんが僕に待ったをかけてくれたはずだと思う。
 読んでいて返事をくれないのなら、いったいキアは何を考えているのだろう。
 大宮は僕の頭越しに祠の屋根と、そこに掲げられた額を見上げた。
「ここは竜の神様のお社なん?」
「ああ。そうだね」
 気のない返事をしながら、頭のなかでは出口のない思いが渦巻いていた。
 僕はキアの写真を一枚も持っていない。
 四月にクラス写真を撮影した時にはまだ転校して来ていなかったし、行事の時にもカメラの前にでしゃばるようなやつじゃなかった。
 記憶の中には今でも鮮やかに、清々しい笑顔が残ってはいた。けれどもそれが、僕の思いこみがでっちあげたイメージではないという保証はどこにもなかった。
「昔流行ったマンガに、神の竜がでてきて願い事をかなえてくれる話があったね」
「……うん」
「今なら竜神様に何をお願いしたい?」
 大宮は知らずに言ったのだろうけど、僕は初夏にこの場所で聞いた楠さんの言葉を思い出した。
「……神さんには何をお願いした?青池の竜神さんの御利益は確かやで……」
 あの時の願い事はかなったんだろうか。
「……会いたいです」
 僕はフェンスの鉄線に指をからめて頭を垂れた。
「あいつは、どこかで生きているんです。きれいなだけの思い出にしてしまうなんて嫌です」
 シデムシ、シデムシ、死骸を目にしたくない連中のために、毛を抜いてまるめて、のっぺりした無臭の塊にし、跡形もなく埋めてしまう。そこに誰がいたか、何があったかなんて覚えておく必要はない。
「会うたらええやん」
 大宮がさらりと言った。
 振り向いた僕のとまどいなどおかまいなしに、にっこりと笑った。
「烏丸くん、自分がやると決めたら、誰に何言われてもやり通してきた人やないの。それくらいの押しがないと葺合くんには通じへんかったんでしょ」
 赤みを帯びた日の光が大宮の顔を照らし、おさげ髪に反射して輝いていた。
 僕は目をつぶって大きく息を吸い、吐き出した勢いで目の前の金網にとりつき、両手両足をかけて一気によじ登った。フェンスのてっぺんから反対側に飛び降り、池の周囲に沿って駆け出した。
 五月にここでキアに出会った。空き缶拾いしているところをみつけ、楠さんの世話になった。弁当を分け合い、数学の勉強をし、ふたりだけの名前をもらった。
 会いたい。会ってくれ。また罵倒されようがなじられようがかまわない。どこに行けば会える?教えてくれ。僕はもう我慢しない。
 フェンスの切れ目をすり抜け、公道に走り出てしまってから大宮に礼を言っていないのに気がついた。振り返るともう祠の前には誰もいなかった。池の対岸を制服姿の女の子がふたり、僕に背をむけ、肩を寄せ合って去っていくところだった。
 あとはもうわき目も振らずにひた走り、家に帰りつくとすぐ、最後の一枚の便箋に短い文章を一気に書きあげた。


2004/2/13 Fri.

 手紙の返事が届いた。官製はがきの表には僕が封筒に書いたリターンアドレスをコピーして貼りつけただけ。裏には「十苅水源池 3.4.10」とだけ書かれていた。
 ひと目でそれとわかる、なつかしい金釘流の筆跡だった。


2004/3/6 Sat.

 僕は早朝、デイバッグを背負って家を出た。途中、JRの沿海都市部を走る路線から山間部に向かう路線へ乗り換えた。同乗した乗客の多くは温泉街の最寄り駅で下車していった。僕はそのひとつ先の小さな駅で列車を降りた。家を出てから二時間以上たっていた。
 十苅水源池はダムで川をせき止めて作られた人工湖だ。大正時代に建造されてからずっと神部市へ水道水を供給しているという。湖畔にはサクラがたくさん植えられていて、花や紅葉の季節には観光客でにぎわう景勝地だとも聞いた。
 この季節、まだまだ花芽も固いというのに、僕のほかにもかなり高齢の男女グループが来ていた。チェックの綿シャツにニッカボッカ、トレッキングシューズという本格的なスタイルだ。トレーナーとジーンズにスニーカーの僕は軟弱に見えただろうか。おばさんのひとりがパインアメをくれた。
 僕らは駅前からハイキングコースの道標にしたがって舗装路をてくてくと歩いた。浄水場を通過してさらに渓谷沿いに歩き続け、十苅ダムを目指した。
 アカマツの植え込みをぬけると、どっしりとしたコンクリート造りの堰堤が、薄く靄のかかった空を背景にそびえたっていた。
 ハイカー達はいくつもの補修跡が残る無骨な壁面をバックに記念写真を撮り、小休憩の後は西に折れて寺に向かう道を進んでいった。僕はひとり、堰堤のすぐ下流にかかった細い橋をわたり、池の東岸に沿って北上を続けた。
 湖面を渡る風が木々の梢をざわめかせた。未舗装の山道はだんだん細くなり、アカマツやヒサカキのあいだにコナラをみかけるようになった。
 秋に降り積もったまま柔らかくなった落ち葉のおかげでほとんど足音はたたなかったが、別れ道からこちら、誰かがついてくる気配はずっと感じていた。
 ホオノキの群落を抜けると地肌の露出したガレ場に出た。土砂崩れの跡のようだ。薄茶色の土と砂利の斜面に沿ってすべり降りてみた。
 ダム湖の全容が目の前に広がっていた。満々と水をたたえ、向こう岸は靄にかすんで距離がつかめない。あたりにはもうサクラの並木もなく、こわれた防護柵の隙間から水際に近寄ることができた。
 途中、僕はなるべく平たい石をさがしてポケットに入れていた。岸辺ぎりぎりに立って息を整え、できるかぎり水平に石を投げた。一、二、没。その波紋が消えぬうちに別の石が横合いから飛んできた。一、二、三、四、五。見事な軌跡を見送り、振り向いて投手をさがした。
「キア……」
 声をかけてしまってからぎくりとした。キアじゃない。いや……。

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第60回

 長居はそれ以上話しかけてこなかった。新しいゴミ袋の口を広げてから、思い切って訊いてみた。
「金岡はどうしてる?」
「暮れに母親が家を出た」
「えっ」
「あいつ、今まで祖父ちゃんには手を出さなかったからな。頭を冷やすいい機会だ」
「頭を冷やす……って、誰が?」
「家族全員」
 長居の声は淡々としていた。秋よりまた一段と肝が座ってきた感じだった。
「ここには誘ってやらないのか?」
「まだ時期じゃない」
「そんなもんなのか……」
 ふたつめの袋がいっぱいになったところで、学生バイトの巫女さんがお三時だと呼びに来てくれた。
 社務所の奥の間にあがると、割烹着のよく似合う初老の女の人が待っていた。お供え餅のように柔らかい笑顔で、お茶とカリントウをすすめてくれた。
「えらい待たせてもてごめんね。お話を聞きに来とってやのに、手伝いまでしてもうて」
「いいえ。こちらこそお時間をとっていただいて……」
 僕は畳に正座してかしこまり、固唾をのんで奥さんを見つめた。

「……震災前の滋を知っている人がみつかりました。澄吉神社の宮司さんの奥さんです。滋のお祖母ちゃんが氏子さんのまとめ役をしていたので、よく一緒にお仕事をされたそうです。娘さんのお婿さん(つまり、滋のお父さん)は境内の道場で剣道の先生を手伝っていたとか。当時のお祭りは今よりずっとにぎやかで、結構な人手だったこと。葺合さんの一家もよく遊びに来ていたこと。お神輿の見物をするのに、婿さんに肩車してもらったお孫さんが大はしゃぎでちっともじっとしていないので、娘さんが後ろからお尻を支えていたこと。元気で仲の良い家族だったと、とてもなつかしそうに話してくれました。
 不思議だね。滋のことを覚えている人たちは、みんな僕のぶしつけな依頼にちゃんと応じてくれたよ。誰かに話す機会が来るのを待っていた。そんな気がしたほどだ……」


2004/1/17 Sat.

 僕と父さんは祖母の墓参りをすませ、ワゴンRで山麓のドライブウェイを走った。
 自然公園の展望台に着く頃には夕焼け空が東から闇に沈みかけていた。次々と灯りのともり始めた街の一角を父さんが指さした。
「あのあたりだよ。九年前に一夜を過ごした建物は」
「お祖母ちゃんもあそこに運ばれてたの?」
「いいや。地震の前日に具合が悪くなって、自分で病院に行っていたんだ。検査中に容態が急変して深夜に亡くなった。明け方のどさくさで、誰にも連絡がつかないまま時間がたってしまったわけだが」
「お葬式は?」
「現地で簡単にすませた。お骨にしてもらって神部のお墓に納めて帰ってくるのがやっとだった」
「僕がいたせい?」
「ご近所の人たちに手間を取らせたくなかった。あちらのほうが大変な状況だったからね」
「お祖母ちゃんの友達だった人たちは優しかったよ。家をなくして避難してきてるのに、僕のことずいぶん心配してくれてた」
「ずっと覚えていたのか」
「ううん。あの時は怖いことばかり立て続けに起こったから。これはきっと悪い夢なんだ、夢なら早くさめてくれってずっと思ってた。そしたら本当に目が覚めて、いつもどおり常浜の家にいて、母さんもすぐに退院してきて。当たり前みたいにいつもどおりの生活が戻ってきたから、ああ、やっぱり夢だったんだってことにしちゃった」
「夢だと思っていたほうが良かったのかな」
「最初は自分でもそう思ってたんだろうけど」
 夢にしてしまったせいで祖母のことも、親切なおばさんたちのことも思い出さなくなっていた。母さんは僕に調子をあわせるために、お墓参りもしなかった。そのうちに明智に引っ越してきて、怖い夢に追いかけられるようになって、いつの間にか父さんを避けることにまでなってしまった。
「友達に言われたんだ。自分がどんな道を歩いてここまで来たのか忘れちゃいけないって」
「厳しい友達だな」
「自分にはもっと厳しいやつなんだ」
 はるか遠景、立ち並ぶビルのすきまからわずかにのぞく湾岸の公園に、淡いオレンジ色の「7」の数字が光っていた。この距離から見分けることはできなかったが、数字の描線をつくっているは六千余りのロウソクのはずだった。
「父さんは慰霊祭に行ったことはないの?」
「立場がちょっと違う気がしてしまってね。地元の人たちのおじゃまにならないかと。いらん気遣いなんだろうが」
 やっぱり、僕の性格は父さん譲りだな。
 デイパックから小さな燭台を取り出して地面に並べた。竹を輪切りにして節に釘を打っただけの簡単なつくりだ。ロウソクに火をつけてそこに一本ずつ立てていった。僕の祖母の分。希ちゃんの分。そして、何年か遅れて後を追ったはずのキアのお祖母ちゃんの分。
 ロウソクの炎は山の風に吹かれてゆらぎ、何度も消えそうになりながら燃え続けた。
 九年前の僕はたぶん、人間があまりにも簡単に、あっけなく死んでしまうことに気がついて、そのことに耐えられなかったんだろうと思う。だからこそ今ある命を大切にしろと、祖母は教えてくれていたはずなのに。
 キアは一度も忘れなかったのだ。明智から荻筋、埠頭、逢坂、そしてまた明智。住処を転々と変えながら、希ちゃんの気持ちを抱き続けてきた。
 きっと、今も。これからも、ずっと。
 夕日の残光がすっかり消えたあと、眼下には宝石箱をぶちまけたようにきらびやかな夜景が広がっていた。
 風に揺らいで微妙にまたたく「7」の字の灯火は、さほど明るくはなくても周囲の無機質な電飾よりずっと暖かく見えた。目の前のみっつの灯火も同じ空の下で同じ風にゆれていた。


2004/2/2 Mon.

 明智市の冬は雨が少ない。
 山から吹き下ろす乾いた風が、ため池の水面にさざ波をたて、田んぼの土にひびをいれる。
 空は抜けるように青いのに、僕は浮かない気持ちをもてあましていた。
 通学鞄の底には萌葱色の封筒が一枚と便箋が一枚だけ残っていた。
 一月十九日に震災記念日の報告を書き送ってから二週間。これまでのペースでいくなら、今日にも次の手紙を出さなくてはならない。
 でも、何を書けばいいのだろう。
 三学期になってようやく補充の教職員が出揃い、ほったらかされていたキアの机が片づけられた。門真は他の中学校の非行グループにすりよっているようだ。取り残された三国はおとなしい生徒たちに混じって息をひそめている。本山は淡路の彼女になった。一年C組の日常は退屈なパターンの繰り返しになり、誰もが転校生なんかいなかったみたいな顔をしていた。
 僕が排斥されていたわけじゃない。常盤はカラオケに呼んでくれたし、いろんな部活からの勧誘もあった。みんなから距離を置いたのは僕の身勝手だ。

 終業後いつも通りにひとりで正門をくぐり、いつもとは違う道を選んだ。
 久しぶりに訪れた青池の周辺はすっかり様変わりしていた。
 池は小島や橋もろとも掘り返されて底からコンクリで固められた。祠は岸辺に移設され、手すりの代わりにぐるりと張り巡らされたフェンスで池ごと隔離されてしまった。
 藪のあった場所は市営の駐輪場になっていた。
 僕はアスファルト舗装の通路に立ち、祠に面したフェンスの出入り口と、そこにかけられた南京錠をみつめた。
 女子生徒がひとり、後ろから静かに歩いてきて僕の横に並んだ。大宮だった。
 しばらくは二人とも黙って立っていた。クロマツの木陰もなくなってしまったので、沈む寸前の頼りない太陽が僕らを照らして長い影をつくっていた。
 さきに話し始めたのは大宮だった。
「烏丸くん、五月にここでムシを見ていたんやったね」
「気持ち悪いやつだと思っただろ」

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第59回

 子供は怯える、日は暮れる。祖母の住む町内にたどりついたのは十七日の夜更けだったそうです。父は知り合いを捜して祖母の安否を尋ね歩いた。疲れ果てた僕は避難所の隅で眠りこけてしまい、他の被災者さんに見守られていた。
 そこまで話を聞いて、僕も思い出しました。目が覚めると父がいない。外を見ると雲を焦がしそうな高さまで火の手があがっていた。火事は川の対岸だから大丈夫だと誰かに言われたけど、僕はもう怖くてじっとしていられなくて、父を呼び、捜しまわって迷子になった。
 知らない建物の中を泣きながら必死で歩きまわって、とうとう一番奥の部屋にたどりついて、そこで見たのは……」

 僕はその続きに書きかけた文章をぐじゃぐじゃと塗りつぶした。ボールペンのインクが裏まで染みた便箋を持ち上げてみて、ため息をつきながらびりびりと細かく裂いていった。
 四歳児が見た死体安置室の光景なんて主観のかたまりでしかない。それに、あの場の空気やにおいをどんなふうに書き表しても、そこにいた人たちの気持ちを汲むことなんてできない。そんなふうに思ってしまった。
 新しい便箋にもう一度手紙を書きなおしながら、もしキアがこれを読んだら何て言うだろう、と考えた。
 僕が知っているままのあいつなら、書かなかった気持ちまで察してくれるだろう。でも。
 最後に別れたときには「出て行け」と罵られ、突き飛ばされた。あれからもう二ヶ月。そのあいだにあいつがどこで何をしていたか、僕はちっとも知らないのだ。


2003/12/23 Tue.

「……玉出先生のお見舞いに行ってきました。
 脊髄損傷で手足をうまく動かせないので、もう少ししたらリハビリテーションセンターに転院するのだそうです。
 けがの原因になった穴ぼこは、下水道を移設したときに埋め残したマンホールでした。だれかが蓋をはずしてトラップをしくんだはずなんだけど、先生はそのことを追求して欲しくはないと言ってました。生徒の仕業だとしたら、それを止められなかった教師に責任がある、という理屈だそうです。僕にはよく理解できません。
 ところで、滋は大震災の直前まで西中の校区に住んでいたんだったね。
 当時の話を玉出先生から聞きました。西中が避難所だったのは前から知っていたけど、その時にも玉出先生が勤務していたって、この前御影のおばさんが話してたんです……」

 玉出先生のベッドは四人部屋の窓際だった。床頭台やテーブルまわりにはティッシュの箱、タオル、歯ブラシ、時計つきラジオ、新聞やペットボトル、ミニチュアのクリスマスツリー、吸い飲みなどが雑然と置かれていた。先生はもう三ヶ月近く、この部屋で生活しているのだ。
 身のまわりのお世話をしていた奥さんが買い物にでかけ、同室の患者さんたちが入浴や面会に行って、部屋のなかはつかの間静かになった。
 僕は脱いだコートを腕にかけてベッドサイドに立ったまま、先生の返事を待った。
「なんで今頃、震災の話なんぞ聞きたいんや」
「僕が明智に来る前に、どんなことがあったのか知りたくて」
 慎重に言葉を選んだつもりだったが、玉出先生は気に留めなかったようだ。
「知らんやつが聞いても、ぴんとこん話やろけどな」
 先生はベッドに仰向けになり、まっすぐ天井を向いたまま鼻をならした。首と背中が固定されているので、僕を見ることもかなわないのだ。それでも話は続けてくれた。
 前日に感じたわずかな揺れのことから始まり、早朝の衝撃、砕け散った食器、断続的なTV報道、家族の世話もそこそこに学校へ走ったこと。僕は適当に相槌をうち、質問をはさみながら、本当に聞きたい話が始まるのを我慢強く待ちかまえた。
「体育館が避難所になってな。このへんは倒壊した家こそ少なかったんやが、瓦が落ちたり柱が傾いたり畳が浮き上がったり、そこへ余震が続くもんやからみんな怖がって家におられへんかった。日が暮れると続々と人が集まりだした」
 思い出をたぐるうちに、声が低く、苦々しくなっていくのがわかった。
「校舎かて停電断水しとんのに、避難者は増える一方や。けが人もおるけど近くの病院は満杯で、連れ出そうにも車が足らん。現場は混乱しまくりやった。教師らは自分の寝るとこもないまま毛布やら救急箱やらかかえて走りまわっとったんや。それを言い訳にするつもりやないが……」
「亡くなった方がおられたんですか」
「いや、それはない。……あったことになるんかな」
 先生はぱちぱちと瞬きをして唇をなめた。自分の意志で動かせるパーツを精一杯動かしているようだった。
「人であふれた体育館の外の、やっぱり人であふれた渡り廊下のすみで死産があった。まわりが気ぃついた時には母親も死にかけ、つれの婆ちゃんは風邪熱で意識不明。二人の間で四、五歳くらいの男の子が……赤い塊を抱きしめて血だまりに座り込んでいた」
 僕の腕からコートがすべり落ちて床に広がった。手の震えをなんとか抑えて拾いあげ、身体をおこして質問を続けた。
「そのご家族の名前、覚えておられますか」
「俺は聞いてへん。すぐに同僚が病院に連れて行ったからな」
「父親はいなかったんですか」
「神部に出張中で連絡が取れん。生死もわからん。母親が話せたんはそこまでや」
「男の子の……顔は覚えていませんか」
「何を気にしとんや、烏丸。あの子を知っとるとでも……」
 先生ははっとしてことばを切った。男の子が今何歳くらいになっているか、ようやく気づいたのだ。ぎちぎちと装具をきしませてこちらを見ようとした。僕はベッドに駆け寄って先生の顔をのぞきこむように寄り添った。
「だめですよ、無理に動いちゃ」
 先生は蛍光灯を遮った僕を見上げてうわごとのようにつぶやいた。
「……九年か。もう中学生になったんか……烏丸。あの子は……」
「学校が落ち着いたころにはもう、校区にはいなくなっていたんでしょう」
「生きてるんか」
「はい」
 玉出先生はもっと僕を問いただしたかったのだろう。けれども僕のほうがもう耐えられなかった。どんな言い訳や挨拶をして病室を出たのかも覚えていない。
 頭の混乱が多少おさまったときには病院の前庭に立っていた。厚着をした人たちが足早に行き来するなか、裸のサクラの枝にミノムシがぶらさがって北風に揺れていた。


2004/1/05 Mon.

 見上げると青い空をごつごつと切り抜いたようなクロマツの高枝に、二匹、三匹とミノムシがぶらさがっていた。その木の低い枝には細長く畳んだ薄紙がびっしりと結びつけられていた。
 松葉を傷つけないようにおみくじをほどいて集めるのが今日の仕事だった。海に近い丘の上の神社では寒風をさえぎるものなどなく、初めて手伝う僕の指はすぐにかじかんで思うように動かなくなった。隣では長居が慣れた手つきで黙々と働いていた。
「やっぱ、二人だとはかどるな。助かるよ」
「こっちこそ。奥さんに会う段取りを整えてくれてありがとうな」
「神社の手伝いをしてて、たまたまわかっただけのことさ」
 さらりと言ってくれるけど、僕が気にかけている家族のことがそう都合よく話題にのぼるはずはない。心のなかでもう一度礼を言って作業を続けた。
 しばらくすると燃えるゴミ用の袋が紙屑でいっぱいになった。
「これ、ゴミの日に出すんじゃないよな」
「佐義長でお焚き上げだって」
「ふうん……」
「二日の晩にもかなりほどいたんだけど、また貯まっちゃったな」
「大晦日も正月も働きづめだったんだろ。えらいな」
「父さんがずっと家にいたからさ。酒飲みながら愚痴ばっかり。このままお宮の下男になる気か、なんて言ってくるし。休みが終わって、母さんもほっとしてるよ。烏丸の親父さんは物わかりよさそうでいいよな」
「……それも善し悪しさ……」

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第58回

 菱一くんが嬉しそうに声をあげた。女の人が身をかがめて二人に手をのばした。初音ちゃんは一瞬、びくっと首をすくめたが、優しく頭をなでられて、もじもじと身体を揺すった。
 僕はそのようすを少し離れたところから見守った。女の人の荷物が何なのかわかったので、黙ってきびすを返した。

「……素性を明かさないのが堂島さんとの約束なので、お母さんとは話をしていません。赤ちゃんはちゃんと生まれていたよ。滋が転校してくる前に、予定日もわかっていたんだよね……」


2003/11/10 Mon.

「……連休を利用して神部市に行ってきました。去年、滋ともめた中三生たちはもう卒業しちゃったので、事実を調べるのにちょっと苦戦しました。当事者が誰もいないところで見てきたような噂話だけが垂れ流され、無責任に脚色されているのはかなわないな。
 三日間あちこちほっつき歩いて、与太話ばかり聞かされて、ようやく八尾枝美里さんのお姉さんだという人に会えました。八尾さんはほとんど学校に行っていないけど、それなりに元気にしているそうです。滋のことを聞かれて、生きていることは確かだとしか言えなかったのに、ずいぶん安心してくれました……
 ……滋と縁のあった人たちのことを知らせたいと思って手紙を書いてきたけど、読んでて気分悪くない?
 いやだったら読まずに捨ててください。これ以上詮索を続けるなというなら、二宮さんにそう伝えてください。僕としては、またもや藪に踏み込んでしまって、今頃になって迷いだして、半分は後悔しています。だからといって引き返さないのが悪い性分です。しかたないやつだと思って許してくれるなら、もうしばらく僕の身勝手につきあってください……」


2003/11/24 Mon.

「……江坂が戻ってきています。バイク強盗の犯人じゃないとわかったので、結局たいした罪にはならなかったようです。試験観察と執行猶予ってどこが違うんだろう。法律の本もいろいろ読んでみたけど、僕の頭にはなじみません。物理学の法則と違って、根拠に説得力が感じられないです。
 同じ頃に鑑別所を出たはずなのに、千林は姿をみせません。児童自立支援施設とかいうところに行ったらしいけど、先生も児相の人も教えてくれません。滋は児童養護施設にいるのかな?クラスの連中にはそんな区別なんてつける気もないだろうけど……」

 数日前から降ったりやんだりの小雨模様で、始業前の旧校舎はどんよりと薄暗かった。
 将棋部部室にはいると、江坂が一人で碁盤に向かっていた。
 黒く染め戻して刈り上げた髪が不自然で、かえってこの男の正体をわかりにくくしているように思えた。
「今度は詰め碁ですか?」
 僕が声をかけると、江坂はちらと目線をあげてすぐに戻した。
「こないだ覚えたとこやけど、将棋とは違った味があんな。大将を追い詰めるんやのうて、陣地の取り合いなんがおもろい」
 世間話の口調でそう言うと、碁笥に手をつっこんで、ざらざらと石をすくってみせた。
「一個ずつは何の特徴もない石やのに、置き場所によって強うも弱あもなる」
「兵隊を犠牲にして勝ち負けを争うことに違いはないんでしょう」
 江坂は下を向いたままくすくすと笑った。
「お前、ここへ来て平気でそういう口をきくねんな。そこそこ揉んだったのに、もう忘れたんか」
「見事な関節技でしたよ。ものすごく痛かったのに、あとで医者に診せたらどこも負傷してないって言われました」
「後腐れを残すんは野暮やろ」
「子分たちは病院送りにしてもいいんですか」
「俺がやったとは誰も言うてへん」
 やっぱり、食えない男だ。
「近頃は淡路や茨木たちを野放しですか。勝手に動きまわってるみたいだけど」
「俺はもう引退や。進学準備もあるしな。あとは自分らで好きにせえて言うてある」
 グループは切り捨てた。ほとぼりが冷めるまで表だって動く気はない。そういうことか。
「埠頭区で八尾さんという人に会ってきました」
「去年の乱闘事件か。お前も物好きやな」
「やっぱり知ってたんですね」
「ネタ話や。援交のつもりでホイホイ呼び出しに応じたアホ女がマワされそうやからて、わざわざ助けに行くアホ男がおるんかい、てな」
「小学校の同級生だったんですよ」
 江坂は黒石を一個、人差し指と中指で挟みとって、ぱちりと盤に置いた。
「アホさ加減が妙に多聞と似とうな」
「多聞さんからも葺合の話は聞いていたんですね」
「直接やない。出戸の爺がこぼしとった。あいつが爺に逆らったんは生涯で二回だけ。二回目は今回で、一回目が葺合のオカンを店に出せ言われたときや」
「葺合の話とは違いますね。多聞さんも女衒の片棒かついでたみたいに聞いてたけど……」
「エロ爺と一緒くたにすんなよ」
 江坂の声がわずかに不快そうになった。
「あいつは多聞にオカンとられる思うて妬いとったんやろ。はじめ洗濯場で雇うてんけど、街で拾うてくる女子高生どもよりよっぽどそそる女やったからな。ババアの入院代がかさむとかできゅうきゅうゆうとったし。簡単に落とせるやろ思うてたところが、おっさん逆に金持たせて逃がしてもうた。そのせいで幹部から明智の妾んちの子守りに格下げや。アホな話やで」
「多聞さんが出所したら、葺合に会わせてやって、今の話を……」
「……させへんで」
 江坂ははじめて僕を真正面から睨みすえ、凄みのある笑みをうかべた。
「今は俺のもんや。多聞だけは誰にも渡さん」
 脅されているはずなのに、僕は思わず失笑していた。こいつでも余裕をかましていられない時があるんだ。
「妬いてるのは江坂さんのほうでしょう。らしくないですね。多聞さんにとっては葺合のほうができのいい弟子だからって……」
 まっすぐに伸ばしてそろえた指が、いつの間にか僕の喉仏すれすれの位置でぴたりととまっていた。
「ほんまに命知らずやな。その自慢の頭も、役にたつんのは胴体とつながっとううちやで」
「肝に命じときますよ」
 僕はにこやかに会釈してその場を離れた。部屋を出るときに売布とすれ違ったが、背中にはりつく視線ももう以前のようには気にならなかった。

「……何のかんの言って、江坂は出戸の下請け仕事から完全に手をひいたみたいです。堅気に戻るというより、独立起業を目指してる感じです。多聞さんはたぶん、これからも江坂のお守りを続けるんでしょう……」


2003/12/08 Mon.

「……今日は僕のことを書こうと思います。
 以前『お前は震災を経験しているはずだ』って滋に言われたことがあったね。この週末にようやく父から当時の話を聞きました。
 母の母、つまり僕の祖母が神部市の西部に住んでいたそうです。
 一月の連休に家族三人で遊びに行ってたんだけど、勇を妊娠中だった母さんが体調を崩して、あわてて常浜の家に帰ったのが十五日。切迫早産で緊急入院したことを、父が祖母に連絡しようとしたのが十六日。ところが何度電話しても祖母が出ない。母が心配するものだから、父が僕を連れて様子を見に行くことになった。休日のこととて伯父とも連絡がつかず、預け先もすぐにはみつからなかったんだね。
 父が僕を乗せて車を出したのが十七日の早朝。地震のことは車中、ラジオで初めて知ったそうです。それでも前進を続けて、とうとう足止めを食ったのが虹宮市。父はそこで車を置き、チャイルドシート付きの自転車と弁当とお茶を買いこんで、さらに西へと突き進んだ。たいした行動力というか、あとから考えると無謀というか。(僕の性格は父譲りなのかな?)
 その時はまだ情報が断片的で災害の規模もわからなかったから、二~三時間もペダルをこげば被災地を通り過ぎて、タクシーでも拾えるだろう。そんなふうに考えたらしいです。
 ところが、行けども行けども崩壊した街が続くばかりで出口が見えない。

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第57回

一年C組の担任も不在のままです。HRはいろんな先生が交代で見に来ています。
 先生の指導なんか無いも同然なのに、住之江と長居と金岡以外の生徒はそれなりに登校しています。
 消防がいなくなって、警察の出入りも減って、だんだん以前と同じ西中に戻ってきている感じかな……」

 下校路を少し離れた郵便局に寄って、二重の封筒に入れた手紙を投函した。国道に戻るとすぐに大柄な男の人が追いついてきた。
「大丈夫やとは思うけどな。あんまりひとりで細い道に入りなや」
「チンピラどもとは休戦協定中ですよ。売布の統率力がどれくらいなのかは知らないけど」
 数日前、僕はひとり旧校舎の部室に呼び出された。それなりに覚悟を決めて行ったのだが、あの夜の逮捕劇についてあれこれ聞かれたあとは相互不可侵の提案がすんなり通って拍子抜けするほどだった。そのとき気がついたのは、僕が江坂や宇多野先生に真っ向から挑んだ命知らず、キレさせるとしゃれにならない危険人物とみられていることだった。
 堂島さんは珍しく、僕の顔色を気にしながら話を続けた。
「今週中に、青少年課からお呼びがかかると思うで」
「またですか。もう知っていることは全部警察にお話ししましたよ」
「別件や。千林が五月に浮浪者を襲撃したて吐き出した」
「……何を今さら」
「まだ十三歳で初めての触法、関係機関でもノーマークやったからな。親は家に連れ戻す気満々で弁護士も立ててきてんけど、ガキのほうがいやがっとる。親父に叱られ続けるくらいなら少年院のほうがましや、審判を重うしてくれやと」
 なんだかやるせない気分になって、ため息がでた。
「あんなやつ、一ヶ月もたずに家に帰りたいって泣き出しますよ。滋にも聴取に行くんですか?」
「この件はもう俺の管轄やないからな……」
 この一週間、堂島さんとは何度か会っているけど、キアのことは何も教えてくれない。守秘義務というより、僕が暴走するのを警戒しているようにみえる。
「……ゴルフ場で堂島さんに会ったとき、僕が躊躇せずに訴え出ていれば、事態はここまでこじれなかったのかもしれませんね。滋が深みにはまることも、千林が余罪を重ねることもなかったのかも」
「それを言うんなら、俺のほうが責任重大やて」
 今度は僕のほうがとまどって、堂島さんの顔を見上げた。
 刑事さんは今まで見たこともないほど真剣な目をしていた。
「なんや、その顔は。きみら三人には申し訳ないことしたて思うてんねんぞ。こら。なにがおかしい」
「いえ……子供にちゃんと謝る大人なんて、いないと思ってたから」
「……ふん……」
 それこそ子供のようにむくれた堂島さんを見て、ちょっとだけ気持ちがほぐれた。同時に、またぞろ新しい計画が頭をめぐりはじめた。持ち前の悪い癖だ。今なら刑事さんから、情報のひとかけらくらいは教えてもらえるかもしれないなどと……。


2003/10/27 Mon.

「……住之江が登校するようになりました。今回はプリウスじゃなくて、フィットで送迎です。運転しているのはお父さんかな。英語と数学だけは『あすなろ学級』で教えてもらってるけど、それ以外の時間はC組の教室にいます。僕とは朝夕のあいさつと立ち話をするくらいです。世話を焼いてやらなくても、もう誰もちょっかいはかけてないし。高井田は県警の相談室にちょこちょこ呼ばれて、それがまんざら嫌でもなさそうです。宇多野先生がいなくなってからのC組は緊張感がすっかり抜けてダレまくりです……
 ……堂島さんに無理を言って、初音ちゃんと菱一くんの保育園を教えてもらいました。(津守さんには内緒です。二宮さんに知れたらまずいかな?わざわざ表ざたにはしないと思うけど)
 中間テストのあとで行ってきたよ。ふたりともとても元気そうだった。仲の良い双子だね……」

 平日の昼下がりだというのに、逢坂市の南、ターミナル駅前の交差点はたいした賑わいだった。道路からあふれそうな自動車の列をかきわけて路面電車が走ってきた。路肩をすりぬけようとしたミニバンに、隘路から飛び出したベビーカーが危うくぶつかりそうになった。
 僕が片側のフレームをつかんだことで、軽量タイプのベビーカーはくるっと半回転した。ハンドルを握っていた小さな子供が振りとばされそうになりながら、なんとか踏ん張った。
「どこ見とんのや、あほんだら!」 
 罵声を浴びせたミニバンの運転手に向かって、立ち直った子供が思い切りあかんべえをした。短く切りそろえた髪に日焼けした気の強そうな顔。泥んこのズック靴。ピンクのスモックを着ていなければ女の子だとわからなかっただろう。
「大丈夫かい?もう少し下がろうか」
 女の子はようやく僕を見て、ベビーカーを奪い返そうとするようにハンドルを引いた。
「リョウちゃんをいじめたら、あかん」
「いじめてないよ。じゃあ、こっちは手を離すから、危なくないとこまで動かしてくれるかな」
 そうこうする間にも僕らのすぐ後ろを何台もの自動車が速度を落とさずに走りすぎた。女の子はちょっと口の端をまげたが、ぐいっとハンドルを押して出て来た細い道に戻った。はずみでベビーカーの前輪が持ち上がった。
 僕ははらはらしながらベビーカーに座った青いスモックの男の子を見守った。わずかに傾いだ細い首がかくかくと揺れたが、本人はいたって機嫌よさそうだった。女の子が顔をくっつけると、男の子がことばにならない声をもらした。僕には仔猫が喉を鳴らすのと区別もつかない音が、女の子には理解できるようだ。
「リョウちゃんが、ありがとってゆうてる」
「そりゃ、どうも」
 僕が男の子に手を振ると、女の子はようやく眉間のしわをゆるめてくれた。
「お名前、教えてくれる?」
「ツモリリョウイチ。あ、あたしはハツネ」
「大通りを渡りたかったの?」
「おうち、かえるねん」
「お迎えが来るまで、園で待ってたほうが良かったんじゃないの?」
「そんなん、いらへん。みち、しってるもん。あたしらだけでかえれるし」
「そう、すごいんだね」
 初音ちゃんは得意げにそっくりかえった。
「あたしらで、おるすばんもするんや。パパがかえってくるまで、ごはんたべてまってんねん」
「ママはいないの?」
「ママ……おるけど」
「ご飯とか、作ってもらうんでしょ」
「でも、リョウちゃんにたべさすんはあたしやもん」
「お風呂も、ふたりではいるの?」
「それはあかんねん。パパがいてへんと、あぶないねん」
「お利口だね。いけないこともちゃんとわかってるんだね」
「ほんまは、いっかいだけやってみてん。あかんかってんけど……」
 初音ちゃんはそこで口ごもり、菱一くんのベビーカーを押しながらとことこと来た道を引き返し始めた。
「ないしょやで。パパにゆうたらあかんねんで」
 パパには内緒。それは誰との約束だったのかな。僕が返事をしないでいると、さらに早口でつけくわえた。
「リョウちゃんがけがしたら、パパめっちゃおこんねんで。ハツがちゃんとみとかんかいゆうて」
「初音ちゃんには、ちょっと大変なお役目だね」
「でも、あたしはおねえちゃんやから」
「今はママがいるから、無理しなくていいよね」
「でも、ママにはケイちゃんがおるから……」
 たいしたでこぼこもない平坦な道なのに、初音ちゃんは何度かつまずきかけて、そのたびにベビーカーの菱一くんが身体を揺らした。僕はいつでも手をだせる距離に並んで一緒に歩いた。
 保育園は迎えの母親たちと、その手にまとわりついたり離れたり、じっとしていない子供たちでにぎやかにざわめいていた。ひとり心配そうにあたりを見まわしていた女の人がこちらに気がついた。ほっそりとした少女のような体つき。胸にかけた荷物を揺らさないように両手でかかえながら、精一杯急いで歩いてきた。切れ長の涼やかな目もとが、あいつにそっくりだった。

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第56回

 堂島さんが僕を助け起こしてキアを怒鳴りつけようとしたが、二宮さんに制された。
 わめき続けるキアを残し、大人たちに引きずられて僕が部屋を出たあと、ドアがひとりでにスライドしてぴたりと閉じた。
 とたんに室内からは、ろうそくを吹き消したように何の音も聞こえなくなった。
 おたおたとあたりを見まわしていた女性医師が間の抜けた声をあげた。
「輸液ラインをつけなおさないと……」
 二宮さんが医師に頭をさげた。
「しばらく、待ったげてください」
「……でも……」
「今は誰にも顔を見られとないんやと思います。ちょっと間、ひとりにしといたげてください」
 僕は堂島さんに半分もたれかかって、魂の抜けたようにドアを見つめていた。
 廊下をばたばたと近づいてくる足音がした。
「聡!」
 振り向くと、旅行鞄をさげた母さんが息をきらしながら駆け寄ってくるところだった。
 母さんは鞄を投げ出すように置いて、いきなり僕を抱きすくめた。
「ごめんね。遅うなってごめん」
 青磁色の真新しいスーツに僕の上着がこすれて血と泥の汚れがうつってしまうのもかまわずに。
「母さ……」
 そんなに大きな声をださないで。病室の中まで聞こえてしまうよ。そう言おうとしたのに、ことばがうまく出てこなかった。
 母さんの胸に頭を押しつけられていると、身体中の力がぬけて、とろとろに溶けてしまいそうだった。
 僕は幼い子供のように縮こまって、声をたてずに涙を流し続けた。


2003/10/06 Mon.

 僕が家に連れ戻されて泥のように眠りこけているあいだに、宇多野先生逮捕の知らせが校区中に広まっていた。通用門のすぐそばに住んでいる生徒の家が火の元らしかった。
 学校は保護者連絡会の延期を連絡網で伝えてきたが、一部の保護者が当初予定の時間通りに押しかけ、教職員らと押し問答になった。
 そんな話は後になって御影から聞いた。
 
 月曜日の朝、母さんは休めと言ってくれたけど、僕は鉛のように重い身体をひきずって登校した。
 校長教頭は姿を見せず、教師たちはすっかり浮き足だっていて生徒はほったらかし。授業どころかHRも全校集会も始まらなかった。
 十時過ぎになってようやく臨時休校の決定がおり、僕らはせきたてられるように帰された。
 家に鞄を置いて着替えてから、日曜日の朝まで過ごした病院にひとりで出かけた。
 キアは既に別の病院に移されたあとだった。受付も救急病棟のナースステーションも、転院先を教えてはくれなかった。
 待合室の電話帳で中央児童相談所の所在地を調べ、バスを乗り継いで移動した。幹線道路から少し離れた住宅地のはずれ、市営公園と養護学校のあいだに児相の建物があった。傾斜のきつい屋根と淡いクリーム色の外壁が幼稚園みたいに見えた。玄関のすぐ上に設置されたアナログ時計は正午少し過ぎを指していた。
「二宮さんはおられますか?」
「通所の方ですか?予約は取ってはりますか」
 窓口の男の人の応対は淡々としていた。
「ここへ来たのは初めてです」
「二宮は昼休憩に出ているようですね。午後からは予定が混んでいるので、お会いする時間は……」
「烏丸くん?」
 後ろから呼ばれて振り向いた。コンビニ弁当の袋を提げた二宮さんが立っていた。
 手招きされて、南隣の公園まで一緒に歩いた。
 木製のベンチに散り落ちたケヤキの葉を払い、ふたり並んで腰を降ろした。
「お昼休みなのに、おじゃましましたね」
 二宮さんは首を傾けて微笑んだ。
「礼儀正しい中学生やね。いまどき珍しいくらい」
「一応はお礼を言っときます。滋を引き止めてくれて、ありがとうございました」
「てっきり恨まれてると思ってたわ」
「ああでも言わなきゃ、あいつは病院を逃げ出してた。そのまま行き倒れるか、江坂の手下につかまるか。どのみち僕の手には負えないことになってましたから」
「あなたには何の責任もないよ」
 さらりと言われて頬が熱くなった。口ごたえしたくなるのを我慢して話をすすめた。
「ここからが用件です。僕の質問に答えてもらえますか」
「葺合くんに会えるかと訊かれたら、だめとしか言われへんよ」
「わかってますよ。僕はあいつの保護者じゃない。あいつを叩きのめした父親でもなければ、連絡を受けながら黙り通した母親でもない」
「……きついわね」
「あいつは、母親と義理の父親のところへは絶対に帰りませんよ」
「親権者はお母さんひとりやから、普通はいやでも送り返すんやけどね」
「そうもいかない事情があるんでしょう」
「そこまで知っているなら、何を聞きたいの?」
「一般論でいいんです。家族の誰とも一緒に暮らせない子供は、どこへ行くんですか?」
「たいていは福祉施設やね」
「そのときは転校することになるんですね」
「行く先にもよるけど。もと住んでいた家から、しばらく離れていたほうがいいこともあるしね」
「入所先は同級生に教えてくれますか?」
「いいえ」
「転校の理由が本人の素行の問題や違法行為じゃないってことは知らせてくれるんですか」
「非行やろうと虐待やろうと、第三者には知らせません。本人のプライバシーやから」
 僕はそこまで聞いてしばらく口をつぐみ、スズメたちが花を落としたサルスベリの枝を飛び移るのを眺めていた。
「……手紙を書きます」
「…え?」
「滋あてに手紙を書きます。預かってください」
「そんなもの、ことづけられても渡す義務はないし、返事を期待されても……」
「返事なんかいらない。渡す気がないなら、すぐに捨ててもらってもかまわない。中身を読みたいなら好きにしてください」
 二宮さんは本気かというように僕の顔を見た。
 この人の目に僕はどんなふうに写っているのだろうか。駄々をこねる幼児。ひとりよがりの世間知らず。どう思われようと、一度やると決めたことを撤回する気はなかった。
「お役所の決めることに、まちがいはないでしょうからね」
 二宮さんは衝かれたように大きく目を見開き、それから不思議な笑顔を浮かべた。
「堂島さんの言うてたとおりね」
「何ですか?」
「あなたのこと。折り目正しい過激派やて」
 拒否とも承諾とも、はっきりした返事をもらえぬままに二宮さんと別れ、帰りは歩いて駅前に出た。文具店で萌葱色のレターセットと大判の茶封筒の束を買いこんだ。


第九章 ミノムシ

2003/10/13 Mon.

「葺合滋さま
 手紙の宛先がわからないので、二宮さんに託すことにします。もしちゃんと届いて読んでもらえているなら、僕のかわりにお礼を言っといてくれますか。
 宇多野先生が横領の疑いで再逮捕されました。学校の備品や図書をこっそり持ち出して売り払っていたらしいです。金額はせこいけど、回数が半端じゃなかったとか。新聞にも載ったから知ってるのかな。
 出戸が逮捕されたこともニュースになっていたけど、多聞さんにぼこぼこにされて警察に逃げ込んだことまでは報道されていなかったと思います。
 傷害罪でつかまった多聞さんが、今まで出戸に指示されてきた悪事を九割方(つまり、江坂がからんでいること以外は)ばらしちゃったんで、そのまま拘置所行きになったんだけどね。娑婆には他にも都合の悪いことがいろいろあるみたいで、保釈もされたくないようです。
 江坂と千林は鑑別所にいるらしいです。
 校長先生は入院中です。悪性腫瘍の精査目的ということになっています。
 教頭先生が職員室で首をつろうとしました。未遂で終わったのでこれも新聞には載らないと思います。
 玉出先生はまだ入院中だし、保健室の先生もまだ赴任していません。

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第55回

 口をふさがれたまま返事したので、もごもごとよくわからない音になってしまった。キアはわかったよ、というように手を離して僕の胸を軽くたたいた。
「ラス。今、何時や」
「え……八時前頃かな」
「ふん。思ったより長いこと寝とってんな。ぐずぐずできん」
 キアはがばっと身を起こした。何本かのコードがずるずるとくっついてきたのをうるさそうにつかんでひっぱった。ほっそりした首筋から電極シールがべりべりと音をたててはがれた。
「トンコするで。出口教えろ」
 コードにつながっていたリモコンのような小箱がピーピー鳴り出した。僕は機械に飛びついて電源スイッチをオフにした。
 キアは腰から下に掛けられていた薄い布団を蹴とばした。寝間着の裾に手をつっこんで半透明のチューブを引き抜き、軽く身震いしながら悪態をついた。
 僕は機械を手にしたまま、金魚のように口をぱくぱくさせて棒立ちになっていた。
 キアはさらに右腕を持ち上げ、点滴チューブを固定した絆創膏に噛みついて、ぐいと首をねじった。留置針が絆創膏ごとはずれてチューブが垂れさがり、床に薬液がこぼれ落ちた。やっと自由になった身体でベッドから降りようとして、キアはふらっとよろめいた。
 その腕をつたう血を見て、僕は我にかえった。機械を放り出してキアの手を引き寄せ、針の抜けた穴に自分の袖口を押しあてた。
「無茶するなよぉ。七時間前には死にかけてたんだぞ」
 キアは唇を噛んで青ざめた顔をあげ、僕を押しのけて床に立とうとした。
「ぼけっとしとったら、いらん連中が来てまうやろが。早うせなごたごたにまきこまれる……」
 病室の外から足音と甲高い声が聞こえた。
「バイタルの確認が先です。まだ話ができる状態かどうか……」
 キアはぱっと布団をつかみ、頭からすっぽりとかぶってベッドに寝転がった。
 手を離された勢いで僕は床に尻をつき、そのままベッドの下にあたふたともぐりこんだ。プラスチックの衣装ケースの陰に隠れて、そっと外をのぞいた。
 開いたドアの下端と、病室に入ってくる数人分の足が見えた。
 先頭の白いサンダルが小走りに近寄ってきて、かちかちと機械をさわる音をたてた。焦げ茶色のパンプスが追いついて、ごそごそと枕元を探った。
「先っちょがはずれてますよ、先生」
「それでアラームが……さっき見たときはちゃんと固定してたのに……」
「あなたがはずしたんやね」
 昨日も聞いた声。いや、もう一昨日か。なんだか何年も昔のことのようだ。今度は布団の上から軽くたたく気配。
「はじめまして、葺合滋くん。学校ではどうしても会うてくれへんかったね」
 キアは息を殺してじっとしていた。声の主も、無理に布団をはがそうとはしなかった。
「目は覚めてるんでしょう。県中央児童相談所の二宮です。具合が悪くなければ、お話ししてもいいかしらね」
「あんたの声聞いたとたん死にそうに気分悪うなったわ」
 布団をかぶったまま、吐き捨てるようにキアが応えた。
「だいぶ元気になったみたいやね。神部や逢坂の児相からは、あっという間に逃げてしもたて聞いてるけど。今回はもうしばらくおとなしくしておいて欲しいんよ。あんまり無理して左腕がうまく動かせなくなってもいやでしょう」
「おおきなお世話や」
 二宮と名のった女の人はキアの不機嫌な声にも臆さず、静かに話し続けた。
「今回の事件では、あなたは被害者なの。私たちはあなたを守る立場にいて、今まであったことと、これからのことを相談したいの」
「俺は親父んとこに帰る。あんたらに用は無い」
「お父さんは今、児相にいてはります」
 ベッドがきしんで、僕の目の前に布団がずり落ちてきた。
「お前ら、親父に何を言うた!」
「あなたの負傷と入院について連絡させてもろただけです。お父さんのほうから駆けつけてくれはりました。手首と胸の傷は自分がしたことやと話してもらいました。洗面台の排水管に縛りつけて気絶するまで木刀で殴打したあと一昼夜放置したと……」
「それがどうした!家から出すなて親父に言うたんはクソ刑事やろが。仕事にもどらなあかんのに俺が逆らって逃げようとしたから……」
「暴行を受けたのは今回が初めてやないよね。学校の先生から通告を受けたときには確かめられへんかったけど」
「俺が面倒ごとばっかり起こしとったから……ぼけ担任が会社にまでしつこう電話してくるから、えらい迷惑やってんぞ。おかげで親父は外回りの仕事にばっかり行かされて、給料も減らされて……」
「初めから面倒みる自信なんてなかった。母親のところにさっさと帰らそうと思うてわざと邪険にしてたのに、いっこうにあきらめる気配がない。意地のはり合いから引っ込みがつかなくなって、度を越してしまった。今思えば人として許されることやない。お父さんはそう言うて……」
「黙れ!」
 ぎしっと大きくベッドが揺れた。僕は隠れ場所から這い出してベッドに飛び乗り、拳を振り上げたキアを背後から抱きすくめた。
 童顔の女性医師。児相職員の男の人と堂島刑事。大人たちがあきれたように僕を見つめた。えび茶色のスーツの二宮さんだけは、キアから目をそらさなかった。僕は学校で出会ったキアの父親を思い出し、父親の話をするときのキアの顔を思い出し、県住のドアから漂い出た夕飯のにおいを思い出した。
「春ごろには仲良く暮らしてたんです。僕が面倒ごとに巻き込むまでは。滋は……お父さんと一緒にいたくて一所懸命……お父さんだって……」
「理由はともかく、結果は虐待です。私たちには刑事告発の義務があるから……」
「親父を逮捕なんかしてみろ!お前ら全員げろ吐くまでのしたるからな!」
 二宮さんは首をかしげて堂島刑事を振り向いた。
「容疑者が自白しても目撃者はなし、証拠はあとから確認した状況だけで、被害者は容疑者を弁護。これで起訴できますか」
 堂島さんは渋い顔で応えた。
「学校からの通告も、暴行の目撃者からではのうて、また聞きした養護教諭からでしたな」
 二宮さんは向きなおってまっすぐキアの目を見つめた。
「私たちの仕事は、あなたの命とちゃんとした生活を守ることです。それがかなうなら、何が何でもお父さんを犯罪者に仕立てる必要はない」
 キアは今にも噛みつきそうに二宮さんをにらみ返した。僕はコルセットの上からキアの身体に腕をまわしていた。これ以上動かれたら傷をさらに痛めてしまいそうで、気が気ではなかった。
「お父さんとあなたが今後一緒には暮らさない、二人だけでは出会わない、それだけ守ってもらえるのなら……」
「俺は逢坂には戻らへんで!」
「あなたの親権者はお母さんひとりやからね。お母さんの気持ちは……」
「オカンにまで何か言うたんかよ!」
「動かないで……お願いだよ。傷がちゃんと治らなかったら……」
「電話に出てくれはったんは、お母さんのご主人でした。あなた、弟くんが溺れたときのこと、ちゃんと説明する前に逢坂児相から飛び出してもたでしょう。さっさと戻ってきて正直に話をしろ。それが津守さんの意向でした」
 布団をつかんだキアの右手が震えていた。
「勝手なことばっかりしくさって……」
「こんなにあわてて事情を説明したのは、あなたにおとなしく入院していて欲しいからよ。ここで逃げ出したら、私たちも警察もあなたを捜さなければならなくなる。あなたがお父さんに会ったりしたら、よけいにお父さんの立場を悪くすることに……」
「もうええ!黙れ!この部屋から出て行け!」
 キアがモニターの機械をつかんで床に叩きつけた。二宮さんに向かって枕を投げつけ、布団を蹴り落とし、薬液のスタンドを押し倒して最後に僕を突き飛ばした。
「お前もや。出てけ!出て行けぇ!」

ラス・キア 子守唄墓守虫(ララバイ・シデムシ) 第54回

 いつも冷静な父さんが、さすがにむっとした声になった。
「ずっと捜していたんだぞ。家を離れていたせいで、かえって連絡をもらうのが遅くなってしまったが」
 ひとり立ちあがって僕に手をさしのべた。
「来なさい」
 これがいつもの父さん流だ。腕づくや怒鳴り声で子供を従わせようとはしない。わかっているだろうと言わんばかりに待っているだけ。
 胃がむかむかして猛烈な怒りがこみあげてきた。
「今さら何だよ!前は助けになんか来てくれなかったじゃないか!ずっと呼んでたのに!」
 大声をあげてしまってからぎょっとした。いったい僕は何の話をしているんだ?
「……前は?……」
 父さんの顔が青ざめた。ちっともらしくなかった。いつも通りの態度に腹をたてたばかりなのに、今度は急に落ち着かなくなってしまった。
 ふたりのあいだに気まずい沈黙がおりた。
 処置室のドアがゆっくりと開くのを、若い男の人が待ちかねたように身体を横にしてすりぬけてきた。パジャマのような青いシャツとズボンの上に白衣をはおり、度の強い眼鏡と紙製のマスクをつけている。キアについて行った医師のひとりだ。
「あなたは?」
 医師はマスクをずり下げて父さんに話しかけた。
「父親です」
 状況が読めないまま、父さんは短く応えた。
 医師は眉間にきゅっとしわを寄せて、さらに一歩、父さんに詰め寄った。
「一命は取り留めましたよ。失血性ショックをおこしたのは、もともとかなりの脱水状態だったせいです。補液が間にあってからのデータがこれだ」
 白衣のポケットからひっぱりだした紙切れにはぎっちりと細かい数字が印字されていた。それを父さんの鼻先につきつけて医師がまくしたてた。
「ケトアシドーシス。低アルブミン血症。鉄欠乏性貧血……あんた、子供を飢え死にさせるつもりだったのか?」
 父さんは憮然として年下の医師を見つめ返した。
 廊下中に響きわたった騒ぎを聞きつけたのだろう。堂島さんがこちらに走ってきながら、さらに大きな声をだした。
「先生、ちゃいますがな。この人は被害者の家族やない」
「けど今、父親って……」
「私はこの子の父親です」
 父さんが僕に手をふってみせた。
 医師はようやく誤解に気がついて、ばつが悪そうに眼鏡を押し上げたが、謝罪もせずにくるりと後ろを向いて処置室に戻っていった。
 堂島さんのほうが恐縮して、ぺこりと頭をさげた。父さんが何か訊こうとして、携帯の着信音にさえぎられた。
 刑事さんは僕らを気にしながら通話口を覆って話しだした。
「……はい。いや、江坂とちゃいます。肩の傷は千林っちう……肋骨骨折?……いや、それも別件で……」
 通話を続けながら、大股で来た方向に歩いていってしまった。
 僕の頭にはさっきの医師の話ががんがんと鳴り響いていた。キアが助かったと聞いてほっとするどころか、まかり間違えば命を落としていたと知って胸がぎりぎりと痛んだ。自分の軽はずみな行動が許せなくて、今となっては何もできないことががまんできなくて。膝頭に顔を押しつけて必死で涙をこらえた。
 父さんはそっと僕のそばを離れた。堂島さんの去ったあとを追い、受付の人や通りかかった看護師さんと何事か話して戻ってきた。
「場所をかえよう。立ちなさい」
「家には帰らない」
「このドアの向こうにはもう、友達はいないよ。病棟に移送されたそうだ。ここにはすぐに別の患者さんが運ばれてくる。家族待機室にいるのはかまわないと言ってもらったから、邪魔にならないうちに移動しよう」
 反論の余地などなかった。僕はしぶしぶ腰をあげ、父さんのあとについて行った。

 改築されたばかりの救急病棟の向かいに旧病棟の建物が残っていて、家族待機室はその一階の隅にあった。大きな病室のベッドを取り払ってビニールレザーの長いすを並べただけの殺風景な部屋だった。
「僕ひとりでいい。勇を迎えに行ってやってよ」
「中学生以下は保護者同伴が規則だよ。勇のことは御影さんに朝までお願いしてきた」
 救急車のサイレンがさっきまで僕がいた方向からうるさく鳴り響いてきて、ぱたりとやんだ。
 しばらくして家族連れらしき人たちがどやどやと待機室に入ってきた。ころころに太った中年夫婦と幼い子供が三人と年とった女性と、若い男の人が二人ほどとその相方の女の人たちと。僕にはさっぱりわからない言葉でかしましく話し合い、足を踏みならし、涙ぐみ、なぐさめあいの騒動になった。
 僕と同年輩の女の子がドアから顔をつっこんで何事か叫んだ。一族がわっとばかりに彼女を取り囲み、口々に質問をぶつけだした。女の子は通訳をつとめているらしい。横に立った年輩の医師の話を聞いてはひたすらしゃべり続けた。何十分かたってようやく全員が状況を呑みこんだらしく、今度は大人同士がわあわあと議論をはじめた。さらに何十分かたって話がまとまったようだ、お互いの肩をたたきあいながら、三々五々、ほぼ全員が帰って行った。
 残ったのは中年の男の人がひとりと、僕と父さんだけ。
 東の空がうっすらと明るくなる頃になってもキアの家族は誰ひとり現れなかった。
 向かいの長いすに寝転がった男の人には日本語はわからなかったと思う。それでも父さんは、その人がいびきをかき始めるまで待って、僕に小声で話しかけた。
「さっきの話だがね。私が助けに来なかった、というのはいつのことだったのかな」
 この状況でそんな話を蒸し返されたくなかった。僕は長いすの端に身体をまるめてそっぽを向いていた。
 しばらくして父さんがつぶやいた。
「……覚えていたんだな」
 それじゃあ、親は始めっからわかってたんだ。僕が忘れているならそのままにしておこう。今までそんなふうにほったらかしていたのか。
 また胃のむかつきがひどくなって吐き戻しそうだった。それでも今の僕には考えなければならないことが他にあった。
 キアの親類縁者に会えないかぎり、僕が容態を教えてもらったり面会できる可能性はない。それがわかっているから、父さんは僕があきらめるのを黙って待っているんだ。ならばこちらから行動をおこすしかない。
 さっきの一族は「お祖父ちゃんを個室に入院させてやって欲しい」と医師に懇願していた。「最後の空室が埋まってしまったところだ。警察の要請があるので今から変更はできない」というのが返答だった。
 父さんが部屋を出ていった。二時間おきのパターン。たぶん御影さんへの連絡のために。パターン通りなら、戻ってくるのは約一分後。
 僕は頭の中で二十数え、父さんが置いていったジャケットをはおって部屋を出た。
 汚れた上着を見られないようにジャケットの前をあわせてまっすぐ背筋をのばし、何食わぬ顔をして引継ぎ連絡中のナースステーションを通り過ぎた。
 個室の並ぶ廊下を通過して角をまがり、一呼吸おいて引き返した。患者名の掲示されていない病室はただひとつ。誰も見ていない隙をねらい、静かにドアを引いて忍び込んだ。

 部屋の中はむっとするほど暖かかった。僕はジャケットを脱ぎ、足音をたてないように気を使いながらベッドに近寄った。
 キアは目を閉じて仰向けに横たわっていた。お仕着せの寝間着に右腕だけを通し、左腕から肩まではごついテープと包帯でがんじがらめに固定されている。胸にはプラスチックのコルセットがはめられていて、隙間から青黒い打撲痕が見え隠れしていた。
 きりきりと痛む鼓動に耐えながら、恐る恐る顔をのぞきこんでみた。
 出し抜けにさっと伸びた右手が僕の顔を押さえた。
 あやうく叫びそうになり、焦って口を閉じたひょうしに思い切り舌を噛んでしまった。
「騒ぐなよ」
 キアがささやいて、くすりと笑った。僕を見上げた目には、おなじみの冴えた光が戻っていた。
 涙がにじんだのは舌が痛かったからだ。
「驚かすなよ。かえって大声出しちゃうとこだったじゃないか」

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