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*暴力論

腹がたつのは当然としても

「怒り」と「憎しみ」の区別のつかない人が結構いてる。

理不尽な状況、うまくいかない現実、あってはいけないことが起きたときに怒りを感じるのは当然。
「怒り」は「コト」に向く。

でも、そこから「悪いやつ」「たくらんだやつ」を見つけ出して矛先をむけるのは「憎しみ」。
「憎しみ」は「ヒト」に向く。

怒りのエネルギーを状況の改善に向けるのはプラスの力。
これをまちがえて憎しみに変化させてしまうと、何もうまくいかない。憎悪の連鎖がうまれるだけ。

さらに「憎い」相手に直接ぶつけられなかったエネルギーは八つ当たりになってやっつけやすい相手に向かう。

「いじめ」も「虐待」も、行き場のない負のエネルギーを手近にいて逃げられない相手にぶつけることでは同じ。

「怒り」のもっていきかたをまちがえているのに、気がついていない人が結構いる。
そういう人にかぎって自分が正しいと信じて疑わない。
そんなことが気になる今日このごろ。

暴力論33 ひとまず終了

だらだらと書き続けてきた「暴力論」ですが、このあたりで一旦、区切りをつけたいと思います。

常日頃考えていることで、まだ書いていないテーマもいくつかあります。

暴力を引き出し、利用しようとする言論について。
「挑発」「威嚇」のほかにも「扇動」「揶揄」「讒言」「罵倒」など、ことばそのものが持つ暴力性について。

性暴力について。とくに性を理解したり、身体の準備ができる以前に被害にあった子供たちや、男性の被害者について。

「何もしない」「知ろうとしない」ことの問題について。放置すれば被害者がでるとわかりきっている状況をみすごすことについて。

いずれも書き出すとまた長くなるので、またその気になったとき(おそらく、どなたかがまた私を怒らせたとき)にエネルギーをいただいて取り組みたいと思います。

生まれつき暴力的な人間の赤ん坊はいません。
社会の中で最弱者である子供は大人の暴力被害にあうことで暴力を手段として学び、生き残るために暴力的に成長します。
あなたが理不尽な暴力被害にあいたくないなら、児童虐待を減らすことに協力してください。
そして、虐待する親を減らすために、弱者に凝縮される被害者感情を緩和することを考えてください。
まちがっても、復讐や正当防衛の名の下に、新たな暴力の種をまかないでください。

私の主張すべてに賛同できない人も、この機会に暴力という手段について考えていただけたのなら幸いです。

暴力論32 加害者をやっつける前に

 被害者にできるもっとも初歩的な自衛手段は「いやです」「やめてください」とはっきり意思表示すること、それでも加害者が聞き入れないときには、さっさと逃げ出して他の人の助けを求めることです。
(ものすごく当たり前に聞こえるかもしれませんが、加害者が顔見知りだったり圧倒的な力の差を誇示されたりすると、なかなかうまくいかないものです)
 一番へたくそな対処は暴力で反撃しようとすることと、当事者の間だけでことをおさめようとすることです。
 その理由についてはこれまで何度も書いてきました。

 さて、被害者から助けを求められた人はどう対処するのがよいでしょう。
 最悪なのは無視、無関心です。
 自分の手にあまると思ったら、せめて助けになりそうな人を一緒にさがしてほしいものです。

 助っ人がそろったら、最優先すべきは被害者の安全を確保することです。
 うっかりして加害者が被害者に接触できる状況をのこしたままで加害者をやっつけたり叱ったりすると、とんでもない結果を生みます。
 当たり前に聞こえるでしょうが、小学生のいじめ相談を受けた担任から国際社会の人権論争まで、被害者無視の加害者糾弾が生む悲劇はやまほどあります。

 被害者をしっかり守ってから、もし加害者に何か働きかけるとしたら、「手段としての暴力はともかくまちがっている」が、「目的や心情については話しあえる」とはっきり伝えることでしょう。

 それでなくても加害者は、自分の存在が他者にないがしろにされていると思いこみやすく、強者は弱者を徹底的に踏みつぶすと信じているわけですから、その信念に荷担するようなアプローチは有害無益です。

 目的が正しければ手段が正当化されるというのが、いやになるほどありがちな誤りです。また、手段をまちがえている人は問答無用で叩きつぶすというのも同じくらいの誤りです。

 殴り合いで勝ったほうの意見だけが尊重されるなんて、じゃんけんで法律を決めるくらい根拠のないことだと思いませんか。

暴力論31 暴力を防ぐために暴力をふるうことの問題

 暴力をふるう人、ふるおうというそぶりをみせる人、暴力を背景に威嚇や脅迫をしてくる人。そんな人たちとかかわってしまったときにどうすればいいのでしょうか。

 一番重要なのは、相手の価値観や思惑にまきこまれないことだと私は考えます。
 暴力が手段として有効だと考えている人たちは、対人関係を強者と弱者、加害者と被害者という上下軸で考えることしかできません。
 対する私たちも、相手にやられるかやりかえすか、どちらが上位に立つかなどと考え出した時点で、既に暴力的な関係性を肯定してしまっているのです。
 暴力に屈して相手のいいなりになるのもおかしいのですが、逆に反撃を加えて相手をやりこめてしまうのもまちがいです。
 そんなやり方では相手は「暴力勝負で自分が負けた」とは考えても、最初に暴力に訴えたことが間違いだったとは思いません。それどころか、「弱いやつは強いやつのいいなりになるしかない」という信条を強化されるだけです。
 あなたにぶちのめされた「悪党」は、仕返しのためにもっと強い手段を手に入れようとするか、自分より弱い人をみつけて虐げるかでしょう。

 最終目標は加害を試みる人に「ここで暴力をふるったり脅したりしても自分に得はない」と理解してもらうことと、「他の方法をとったほうが自分の被害をとりもどせそうだ」と感じてもらうことです。
 そのためには相手がこうむったと感じている被害について冷静に話を聞き、一緒に対処を考える姿勢が必要になります。
 上下関係はどちらが上になっても後で問題を残します。どちらかが自分の言い分を全面的に通しても何も解決しません。対等の関係でお互いの利害について話し合うこと、暴力は手段として否定するが、その目的については別の方法で解決をはかることが基本でしょう。

 もちろん、自分中心の考えに凝り固まっている人、暴力以外の手段を知らない人、衝動的攻撃的で考えるよりさきに手のでる人はいくらでもいます。だからといって、そういった人たちを排除するとか制裁するとかいった方法では、うまくいかない考え方や行動パターンの修整はできません。
 被害者を増やさないために最低限の防衛は必要でしょうが、そこには「防衛のための先制攻撃」とか「反対勢力の根絶」とか「二度と逆らう気がおきないようにぶちのめしておく」とか「被害者の苦しみを自分で味わえばいい」といった考えは決して混じってはいけないのです。

暴力論30 過渡期の難しさ

 日本の国内では暴力沙汰にまきこまれたり目撃したりする機会は減ってきています。これはけっこうなことなのですが、ごくごくたまに暴力と遭遇してしまったときに、対処が難しくなっている面もまたあるようです。

その1
 相手がいきなり暴力をふるったり、威嚇してきたときに、とっさにどう対応したらいいかわからない。焦って相手のペースに巻き込まれてしまい、事態を悪化させてしまう。

その2
 暴力に対する拒否感情と、暴力をふるってしまった人に対する拒否感情が混同される。暴力的な人を例外的な存在として排斥する傾向がすすむ。

その3
 直接の暴力以外の理由で被害感や閉息感をつのらせている人が、いきなり暴力的な手段に訴えることがある。加減を知らないことが暴発につながることがあるようです。

 だからといって、暴力的な環境に慣れ親しむことが解決策なわけがありません。
 伝染病の免疫をつけるためと称して病原体をばらまくのと同じくらい無意味なことです。
 私たちが自分自身と大切な人たちを守るために必要なのは、正しい知識と日頃からの心構えでしょう。

暴力論29 日本社会は物騒か?

数日前の新聞に「日本の年間殺人発生件数が戦後最低を記録したのに、マスメディアはなぜ大々的に報道しないのか?」といった趣旨の論説がのっていました。

犯罪白書を調べてみると、確かに殺人の件数はわずかな増減を繰り返しながらもじわじわと減り続けています。この数は欧米諸国と比べてもずいぶん少ないようです。

そのわりに、世の中が平和で安全になった気分がしないのはなぜでしょうか。

ひとつには暴力犯罪の少ない状況に日本に住む人たちが慣れていること、もうひとつは暴力に対する人々のまなざしが年々厳しく、批判的になっていること。
これらが関係しているのではないかと私は考えています。

人殺しや暴力沙汰が日常茶飯事で、常に護身に気を配らなければ暮らしていけないような国に住む人たちは、多少の個別事件にはニュースバリューを感じないでしょう。
日本に住む私たちは「人間は暴力被害にあうことなく生涯暮らすのが当然」と意識しているからこそ、暴力の理不尽さに腹をたて、報道を読みあさるのだと思います。

また、殺人や傷害が減っても性犯罪や恐喝、詐欺、窃盗などが減らなければ安心安全な国という実感は乏しいでしょう。
私たちはここまで暴力犯罪を減らしてこれたのですから、それ以外の犯罪についても十分とりくんでいけるはずだと思います。
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暴力論28 職業と暴力

このシリーズの最初のほうで「誰もが多かれ少なかれ、子供を虐待するリスクをかかえている」ことを書きました。

実際、子供を蹴ったり殴ったりする親の、職業、社会的地位、経済力などはとくに決まっていません。
(庭付き一戸建の室内では子供が泣き叫んでもアパートほど周囲に音が聞こえないとか、経済的に安定した生活を守りたいがために母親が父親の仕打ちを黙認しているとか、親が言葉巧みに子供が悪いせいにしてしまうとかいったことがあるので、社会的に安定した階層の虐待のほうが発見されにくい傾向はありそうです。)

たとえば医師、看護師、薬剤師、保健師、介護士など人命や健康を守るべき立場の人たち。教師、保育士、福祉施設職員、弁護士、消防士、電車バスの運転手など生活の安心安全を守るべき立場の人たち。美容師、調理師、大工、重機オペレーターなど刃物や危険物を扱う職業の人たち。そして警察官、自衛官、検事など法的に暴力を行使したり、それを許可したりすることを認められている人たち。どこにも100%の例外はありません。

もちろん、職業人としても家庭人としても暴力とは無縁の生活を送っている人が大多数だという前提で話をしています。それでも一定の条件がそろえば暴力をふるってしまう危険性を、たいていの人がかかえているし、他の人よりも暴力的になりやすい人たちがどこの業界にもいるということです。

体罰はいけないと頭でわかっていても、ついかっとなってしまって、という人もいれば、悪さをする子供は叩いてしからないとわからない、と未だに信じて公言している人もいるようです。

ほんの十数年前までは、職業場面できちんと行動できている人なら家庭で多少の横暴を働いていても深く追求しない、という風潮がありました。その結果がいろいろまずいかたちで社会にも影響を残すと知られるようになってきたのは最近のことです。

頭に血がのぼると子供をはりたおす外科医師。子供の前でハサミを振りかざして脅す美容師。反抗的な子供を蹴飛ばしてしつけだと言い張る警察官。私ならそんな人たちに手術やヘアカットや取り調べを安心してまかせられるとは思えません。

家庭という他者の目の届きにくい場面での行状を知れば、その人たちが(第三者の見ていない)他の場面でもルールを守って行動してくれそうかどうか想像がつくというものです。
職業上、他者に影響力をおよぼすことを認められている人ほど、委託された範囲を越えて行動しないようにしっかりしてもらわなければ、立場の弱い人間は安心して暮らすことができません。

人間の自制心なんて完璧とはほど遠いものです。
立場の強い人たちの自制心を応援するためには、お互いの見守り、風通しのよいオープンな職業環境がどうしても必要だと思います。

暴力論27 震災と戦災

東日本大震災からすでに9ヶ月がたちました。
死者・行方不明者あわせて2万人余という数字はあまりにも大きすぎて私達の想像を超えてしまうのですが、ご縁のある人のつながりをたどることで、あるいは新聞やTVなどの報道を通じて、一人ずつの死者負傷者がそれぞれ今の私たちと変わりのない人間であることがわかります。

私は平成7年1月17日に明石市に住んでいて、阪神淡路大震災をはじっこで体験しました。
災害の現場にじかに接した人たちは、人間の命や身体がいかに脆く、人間が作り上げたモノやシステムはいかに壊れやすいものなのか、またそれを作り直すのにどれほどの手間と時間がかかるか、いやというほど思い知らされます。

ところで、神戸は震災からさらに50年前、第二次世界大戦の末期に大空襲を経験しています。
このときの被害を正確に調べるのは難しいようですが、死者数が8000人を越えるというのが定説のようです。
戦災について実体験を語れる人は少なくなっています。それでも震災後の焼け野原や津波の後の荒涼とした光景を目の当たりにしたことで、私たちはそれ以前よりは戦争の惨禍を想像しやすくなったように思います。
自然災害で苦しむ人をひとりでも減らそう、被害を大きくしないための手だてをみんなで考えよう。そういった動きに反対する人はいないはずなのに、一方で私たちは災害以上の被害をもたらすための道具や設備も着々と準備しているのですね。

暴力論26 被害者感情

突然の喪失を経験した人は、最初、心に大変な衝撃を受け、混乱のなかで、これが現実のはずじゃない、嘘であって欲しいと考えます。
喪失が動かし難い現実だとわかると、次には猛烈に腹がたってくるものです。

暴力被害に限らず、自然災害でも不慮の事故でも病気でも違いはありません。
自分の身にふりかかった災厄に憤り、「なぜ自分がこんな目にあわないといけない」と怒る気持ちをどこかにぶつけずにはおれません。
そこで原因を求め、理由をさがし、責任を追及しようという気持ちが働きます。
ふりあげた拳を誰かにぶつけなければおさまらない。
加害者がはっきりしている時には、この気持ちがストレートにそこに集中します。

加害者がいるから腹がたつのではなく、腹がたつから加害者を捜してなぐりつけないと気が済まないのです。

怒りのエネルギーは事故の真相の究明であるとか、稚拙な災害対策への糾弾であるとか、同じ苦しみを繰り返さないための原動力として働く時も、もちろんあります。
しかし、犯人をみつけないではいられない、誰かが悪いことにしてそいつにも同じ苦しみを味わってもらわないことにはおさまらない、という気持ちが走りすぎることも問題を生みます。

たとえば救急医療の現場で、患者を救えなかった医療機関を一方的に責めるだけでは治療の難しい症例の引き受け手を減らすだけです。
また、犯罪が疑われる場合でも、最初に逮捕された容疑者をともかく断罪しなければ被害者の気がおさまらない、といった考えでは冤罪を増やしかねません。

いっぽうで、真犯人をつかまえて正しく刑を執行すれば、それで被害者の気持ちはおさまるでしょうか。
殺人犯をつかまえて死刑にしても殺された人は生き返りません。
怒りをぶつけて一時的に高ぶる気持ちをおさめても、被害者が本当の喪失感にさいなまれるのはその後です。
「悪い奴はやっつけたのだからこれでおしまいです」
「だから、いやなことはさっさと忘れて生きなさい」
このような考え方は、遺族や生き残った被害者の感情に沿うものではありません。

被害者感情を本気で尊重するというなら、喪失をかかえて今までの予想とはまったく異なってしまった人生を歩む人たちに末永くつきあうことが必要となります。
報復は、たとえそれが司法の手続きを正当に経たものであっても、長期間にわたる被害者救済の役にはたちません。

暴力論25 ルール違反をうらやむ前に

加害者への報復や懲罰に否定的な意見を述べると、よく次のような反論が返ってきます。
「悪いやつが得をするのを放置していいのか」
「正直にルールを守る者が損をするのでは、誰もルールを守らなくなる」
「罰則がなければルールは守られない」
こういった主張をする人の考えでは、
「抜け駆けをして笑うやつを許さないために、みんな我慢してルールを守っているのだ」
ということのようです。
はたしてそうでしょうか。

まじめに学校の授業に出席している生徒が、不登校の生徒をうらやんだとします。
「病気でもないのに、さぼるのはずるい」
一方では
「出席しなけりゃ成績が落ちるのに、なぜ出てこないんだろ」
と考える生徒もいるでしょう。
登校してこない生徒の状況はいろいろでしょうが、最終的には自分が不利になることに気がついていないか、わかっていても身動きとれない理由があるかどちらかです。納得づくで学校に行かないことを選ぶ生徒も社会的ハンデは覚悟の上でしょう。
登校できている生徒のほうが有利な立場にいるのですから、うらやましがったり、糾弾したりする理由などありません。自分もまねをして学校をさぼるのも軽卒でしょう。

暴力の場合は不登校と違い、被害者がいるだけにもう少し複雑です。それでも現実の加害者が「うまい汁を吸ってほくそえんでいるずるいやつ」といったマンガチックなイメージにあてはまらないことは確かです。
被害感情にかられた人は加害者に対してこういった「俺得」「悪いやつほどよく眠る」イメージをいだきやすいので注意が必要です。

現実には暴力文化のなかで生きる人たちはトランプゲームの「大富豪」を一生涯続けているようなものです。
大富豪はトップに居座り続けるために貧民ド貧民を押さえ続けなければなりません。それでもいつかは転落してド貧民です。
抜け駆けや謀略が当たり前の世界に住む人たちには安心も安定もありません。法的な処罰などぬきにしても、けっしてうらやむような人生ではないのです。

被害や抑圧にさいなまれる人は「自分の幸福を横取りした悪いやつ」をみつけて取り分を奪い返そうと考えがちです。
資産や機会をうまく配分するには現状のルールでは不完全でしょうが、だからといって暴力で自分の取り分を奪い返すとか、相手にことさらにダメージを与えることの正当化はできないと思います。

たとえ法律で認められた暴力でも、仕返しの手段に堕すれば被害者の加害者化を容認することになり、さらなる暴力の連鎖に荷担するだけとなります。

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